朝井リョウ『スター』Youtubeに既存エンタメはどう向き合う?
以前Youtuberの人に裏話を聞いたことがある。収益についてだ。
登録者20万人、1動画あたりの平均再生回数が10万回という実績のチャンネルで、なんと年収2000万円を稼いでいるという。
一概には比べられないが、20万人規模でもこの収益なら、東海オンエアなどはどうなってしまうのだろう。。
Youtubeの勢いはものすごい。
ネットプラットフォームの登場は、ぼくたちのエンタメ環境を劇的に変化させてしまった。
特に視聴体験に関してはもう元に戻れないかもしれない。座って映画を二時間みることが、耐えられない人が今後増えていく気がする。
そうやって、ぼくたちの「何か」が気づかないうちにちょっとずつ変わっている気がする。目まぐるしくコンテンツを消費する脳に、ちょっと怖さを感じるときもある。
朝井リョウの『スター』はそんなぼくたち現代人のコンテンツ体験を、冷静に分析し、わかりやすく感情に落とし込んでくれる。
今のエンタメに疑問を感じている人にとって、ものすごく面白いと思う。
注意:以下ネタバレを含む内容があるよ!
あらすじ
この物語は大学時代に権威ある映画賞をとった二人の主人公が、それぞれの道で有名監督を目指す話。
古風で慎重派の立原尚吾は映画界の巨匠に弟子入り、自由で野性的な大土井紘はYoutubeで動画制作の道を選んだ。
「どっちが先に有名監督になるか、勝負だな。」
二人は別々の道で、映画監督の夢を追う。
質が高いものがいいとされる時代は終わった?
尚吾は作品に対するこだわりが強く、大学のサークルで映画を撮っていた時から、質の高さを重視していた。
職人気質の彼は、一流の監督やスタッフのいる環境で働けることを喜んでいた。
そんな中、先輩の占部がチームから離れることになる。簡単に言うと占部は3年間結果を出せずにいたためだ。それもCMコンペの最終選考で、Youtuberに負けたばかりであった。
尚吾はコンペの結果に疑問を持つ。絶対に作品の質では占部が勝っている。だがネームバリューでYoutuberが選ばれることとなった。
以前よりYoutube動画を雑でクオリティの低い動画だと感じていた尚吾にとって、占部の敗北は受け入れがたいものだった。
一方紘は、学生のときに撮った映画で付き合いがあったボクサーから勧誘され、ボクシングジムの公式Youtubeチャンネルを運営していた。
紘はジムに来て、ボクサーのロードワークやトレーニングの風景を撮影し、動画を作った。小規模なチャンネルで、初期の再生回数は見込めなかったが……
その動画は一本目にも関わらず、Youtubeにあげると再生回数が爆発的に伸びた。ボクサーがイケメンだったこともあり、話題性を呼んだのだ。
しかしそれよりもコメント上で評価されたのは、編集のクオリティの高さだった。つまり紘の腕前だ。
紘はこの反応に戸惑った。
なぜなら紘自身はその動画に全く満足していなかったからだ。なぜここまで評価されているのか…?
そこで彼は気づいた。自分の動画の質が高いわけじゃない。他のYoutuberが編集のクオリティをそこまで重視していないだけなのだ、と。
こうして二人は別々の道を歩みながらも一つの考えに思い当たる。それは今の世の中で評価されるものは、必ずしも質が高いものとは限らないということだ。
そしてさらに言えば、「質が高い」とは誰が決めるのか?それは個人個人であって、世の中の統一解というものはなくなりつつある。世の全員が「これが好き」とはっきり言える作品は、少なくなっている。
なぜなら消費者の需要自体が多様化しているからだ。というより、人間の需要は元々多様であるはずだが、多様な供給がなされていなかった。
Youtubeの雑に撮った動画だって、人気を得る可能性がある。むしろぼくはちょっと素人感あるほうが面白いと思うこともある。
質の低い作品でも、何かしらのきっかけさえあれば世に出ることが出来る時代だ。
尚吾は占部と再会したときに、こんなことを言われた。
あいつだけは認めないって思ってたような奴らが、ガンガン世に出ていった。この三年間、ずっとそうだった。
島から島へ渡り歩くみたいに、別のジャンルから映像に来て、ちゃちゃっと何か撮って監督って肩書だけ手に入れて、また別のジャンルに移っていくような奴もいた。
作品自体がどうってことなくたって、時代は新しい表現者ってだけで取り囲んでくれる。
ないものを、あるように見せることがうまい奴らが、どんどん先に行くへ行く
ないものをあるように見せる人たち、ないものをあるようにまつり上げる人たち
紘の運営するボクシングジム公式チャンネルは徐々に人気を得ていった。
そんなある日、ボクシングジムの経営をするマネージャーの大樹から毎日投稿とサブチャンネル開設の指示が出る。
大樹はかつてプロボクサーを目指していたが、今は引退して経営主の父の手伝いをしていた。
紘からすれば投稿期日のため、今でも満足いかないまま投稿しているのに、さらに動画を増やすことはできなかった。
それに対して大樹は「Youtubeは質よりも量」だと説く。面白いかどうかより毎日顔見せてるかが大事。いかに視聴者の毎日あるスキマ時間に滑り込むか。それが勝負だという。
それでも紘はやっぱりこれ以上のクオリティを下げることはできないと大樹に伝える。大樹はこれをつっぱねて、従わないならば動画のUPに制限をかけることを突きつける。
プロボクサーを目指していた大樹はかつて、ないものをあるように見せることなんて絶対にできない世界で戦っていた。
人間の肉体が生身でぶつかりあうリング上の勝負は、どうあがいても本当の実力勝負だ。実力があるように見せかけても勝つことはできない。
大樹はYoutubeを天国みたいな世界だという。
そのときの自分にとって百点が求められているわけじゃない。
毎日投稿してること自体をすごいと言ってくれる人がいる。
動画長くして広告いっぱいつければ実入りは増える。
ないものをあるように見せられるし、そういう奴でも勝ち続けられる。
本来プロの世界はこの真逆だ。最高のクオリティを毎回求められる。毎日練習するのは当たり前。それで賞賛されるわけじゃない。
しかも日々の鍛錬も売れるまで、成果が出るまで、報われない。収入も低い。ないものはない、実力がなければバレる。
そういう激しい競争で残った者だけが、プロになれた。
Youtubeは実力がなくても、実力があると囲う視聴者さえいれば、本物になれる。一定のファンがついて、評価してくれるようになれば、まるでその人は実力があるように扱われる。
このルールをわかっていて、実力があるように装うのがうまい奴がどんどん実体とはかけ離れて、知名度や肩書きを得ていく。
実際動画制作やDTM制作を生業とするYoutuberは実力勝負だが、ファン商売タイプのYoutuberは過激発言や人生教訓を語ることで人気を得ることも少なくない。
紘はこれをどうしても受け入れられず、そのとき作っていた長編動画を最後にボクシングジムを離れることを決心する。
「待つ」ことができない現代人
紘のあげた長編動画はインフルエンサーの拡散も相まってYoutube上でバズり、映画雑誌の権威である「日刊キネマ」に評論が掲載された。
これを知った尚吾は敗北感に打ちのめされていた。
自分の映画が日刊キネマで取り上げられることが、尚吾の夢だったのだ。
彼は年始から事務所に来て脚本を書いていた。巨匠の鐘ヶ江監督に脚本を提出しては跳ね返される日々が続いていた。
自分が何もできていないうちから、紘は世に出ている。その焦りと敗北感は尚吾の脚本を書くやる気を削ぐには十分だった。
そんなとき同じ撮影チームの先輩である浅沼が事務所にやってきて、ビールを片手に落ち込んでいる尚吾に話しかける。
「みんな、焦ってんだよね。まだ若いのに」
浅沼はクリエイター志望の若者が、世に出よう、世にでなきゃ、と焦っているように見えるという。作品の質をじっくり高めるより、ネットで有名になる方がクリエイターとして成功するのに手っ取り早いと考える風潮があるからだ。
有名であることと実力は本来、別のものだ。
しかし、今では実力がなくともただ「有名」という状態自体に価値が生じている。インフルエンサーにつく広告収益はそれを端的に表している。
最近ではインフルエンサーが作ったコンテンツは中身とは関係なく「いいもの」だとされる図式ができあがっていて、浅沼はこの図式を「気持ち悪い」といった。
そうなると、その図式を利用する、悪い意味で頭のいいクリエイター志望が出てくる。中身より状態を整えたほうが、すぐにリターンがあることに気づく奴らが出てくる。
で、問題なのが問いより答えを持っている人の方が、どうしても状態が整って見えるってところですわ。
中身より状態を整えたほうが手っ取り早くリターンを得られる、問いより答えを持っているほうが状態が整って見える。
この図式から逆算して、作品を作ったり、自己ブランディングをするクリエイター志望が増えているのではないか。まるで自分が「答え」を持っている人間かのように見せかけて。
これは政治でいうポピュリストのやり方に似ている。人間は過激でもはっきりと明言する人の意見に耳を傾けやすい。わかりやすく、単純なフレーズで訴えかけられるとその人を信じやすくなる。
「自分には答えがある」ように大衆に見せると、答えを探して疲労している大衆は簡単に救いを求めてしまう。
同じようなことがホリエモンをはじめとする、ビジネス系のオンラインサロンや自分の人生哲学エッセイを売るインフルエンサーにもあてはまる。
「好きなことして生きろ」「会社なんて無駄」といった発言は、答えを探して迷っている人に刺さってしまう。
クリエイター志望の若者は、それを理解して作品に「答え」らしきものを入れようとする。私は答えを持っている人間ですよ、といわんばかりに。
それが「焦っている」ように見える。答えがないのに、あるように思われたいと思うこと自体。それは尚吾も例外ではなかった。
尚吾は世間の風向きに合わせた脚本……多様性、ジェンダーなどを織り込んで書いていた。私は世の中のことをわかっていますよ、と訴えているようだ。
それが果たして尚吾の中の本当に譲れない価値観なのかどうか、見極める必要があり、それには時間が必要なのだ。
脚本を見てきた巨匠の鐘ヶ江は尚吾に優しくこう言う。
待つ。ただそれだけのことが、俺たちは、どんどん下手になっている。
いつでもどこでも作品を楽しめる環境が浸透して、受け手は次の新作を待てなくなって、作り手も自分の心や感性を把握する過程を待てなくなって、作品を世に放ったところですぐに結果が出ないと不安になって……
どんどん待てないものが増えていく。客足、リターン、適した公開期間、
そのうち
最終的に、自分を待てなくなる。すぐに評価されない自分自身を信じてあげられなくなって、作品の中身以外のところで認められようとし始める
(中略)
作品を提供する速度と自分を把握する時間が反比例していくなんて、そんなの本来はおかしいはずなんだ。どれだけ今はそういう時代じゃないって言われようと、それをおかしいと思う気持ちは譲れない。
Youtubeとどう向き合う?
ネット発のスターの誕生(乱立ともいえる)は、ぼくたちのコンテンツに対する見方を根本的に変えてしまった。従来別々だったはずの創作者の人格、創作物そのもの、発生する対価などがすべてごっちゃになっている。
コンテンツの質は悪くても、ネットスターのあの人が作った、となればファンのおかげで一定数の価値が生まれる。そしてファンがそのコンテンツをいいと思う限り、そこに広告がついてお金になる。
そうすると悪い質のはずのコンテンツも、「お金を稼げるコンテンツ」として、質のいいものとして認知されていくんだよな。「時代はこういうのを求めているんだ」って感じで。
そうなるともう、質がいいものとか悪いものとかの判断もわからなくなってくる。というか、もう「これは良質です。」みたいな統一解は、エンタメの世界からなくなった。
誰かの需要さえ満たしていれば、そのコンテンツには価値がある。言い方を変えれば、金を稼げるコンテンツはやっぱり正義だと思う。
でも……
ぼくが気になるのは、Youtube上にあがっている性やプライベートを売り物とする動画だ。要するに軽度の水商売が、手軽にできるようになった。
一見健全に見えることをしているが、実際には際どいかっこうや胸を強調したシャツやセーターで出演して、エロ目的で視聴回数を稼ごうとする動画。
TikTokの転載などのダンス動画もおなじ。
また、「一人暮らしアラサー女の日常」というような内容で自分のプライベートを見せることで視聴回数を稼ごうとするもの。(人気Youtuberの企画とかではなく、淡々と本当に生活を見せるだけ)
こういう動画は手っ取り早く比較的視聴回数をとりやすい。女性なら顔を出さず声のみ、という形でもすぐに男性のファンはつく。
でもぼくはこういう風潮を疑問に思う。
ファンをつけることが、じっくりいいコンテンツを作るよりも手っ取り早いことは認める。その方が金になるのも認める。だけどそのために自分そのものをコンテンツにしてしまっては危険だと思うのだ。
エロやプライベートといった身売りコンテンツの類は、透明なリストカットだ。ネットには、その記録が一生残る。
仮に身元がわからないようにしていたとしても、リスクは残る。最近では写真の瞳に映った映像から、住所を特定したストーカーもいたね。
何が起こるかわからない。ネットでは姿が見えないが、水商売の客は、本質的にそういう類の男だ。
Youtube上で身を切り売りする女性は、そういうことを自覚しているだろうか?
ネットスターになることとネットで水商売をすることは似てるようだけど全然違う。手軽にできるからこそ、気をつけてほしいと思う。
そんな風に考えると、なんでもかんでも「多様性」という言葉を錦の御旗として、あらゆる欲望を正当化するのはどうなんだろう、とか思うよね。
まあこの話はいいとして、多様な欲望に応える時代になったとき、既存のエンタメはどうやって向き合うべきなんだろうか?
ぼくが思うに、今までと変わらず、作り手が「いいもの」と信じるものを突き詰めていくしかないと思う。
たとえ多く視聴されなくても、Youtubeの方がお金を生んでいるとしても。
欲望が多チャンネル化して、コンテンツも多チャンネル化する。だから「今時っぽくね?」というコンテンツが何か逆算して「ほれ」と視聴者に差し出すほうがウケるしそれでいい時代になってる。そのコンテンツの寿命は短く、すぐ消費されてしまう。
だったら、Youtuberにできない「待つ」ことを、なおさら突き詰めなければならないんじゃないか。すぐに消費されない、何十年経っても見てもらえる作品を作るべきなんじゃないか。
Youtuberの動画は、そのYoutuber自身だ。そのYoutuberをみんなが忘れてしまったら、誰も動画に価値を感じないだろう。50年後、今のYoutuberの動画は見られていない。
でも今年作られた映画は50年後も見られている可能性が大いにある。それは「誰が作った」か関係なく、コンテンツそのものに価値が根差しているからだ。
ぼくらは……特に若いクリエイター志望は、Youtuberをみて惑わされると思う。中にはファン商売ではなく、DTMやオリジナル動画制作で登録者を増やす「本物」もいる。
なんだか若くしてすごいやつが可視化される時代になったから、焦ってしまうのはわかるんだけど、それで自分のやりたいことを忘れてしまうのはもったいない気がする。
結局作り手の在り方は昔と変わらないでいいのかなって思う。自分に実力がつけば、それはネットだろうが実社会だろうが認められるはず。
そう信じて地道に頑張っていくしかない。
「クリエイティブ」とかいうとカッコよく聞こえちゃうマジックだけど
そもそも創作なんて地味で泥臭いものだと思うしね。
何かいつかやってやろうと思ってるみなさん、ともに頑張りましょう!
糸冬
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