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『一公の将棋雑記』に取りあげられる

 
 ありがたいことに、大沢一公さんのブログでぼくのことが書かれていた。1月7日エントリーのものだ。

 昨年12月24日、PCを見ていたら、私のことが書かれているブログにたまたま当たった。それは将棋ペンクラブ幹事・A氏の某ブログで、昨年8月19日にアップされたものだった。サブタイトルは
「ブログを毎日更新できる人は『技』を持っている」
だった。
 読むと、私が毎日ブログを更新していることを持ち上げていたのだがその一方、
「しかし大沢さんのブログを読んでいると、毎日更新することのコツというのも見えてくる。サボりというか、力を抜いた(と読者が思ってしまう)エントリーがぽつりぽつりと挟まれているのだ。」
 と、なかなかに核心を衝くところもあって、私は苦笑を禁じ得なかった。
記事はそこから発展し、A氏自身の過去記事ベスト5を選出するに至っていた。
 以前も当ブログに記したが、A氏は「文章はスピードである」、私は「文章はリズムである」を標榜し、よく文章談義をしたものだ。それはややもすると、将棋を指すより楽しかった。
 しかも作家のA氏はなぜか私の文章の大ファンで、それゆえなのか、私の存在が脅威?に映っていたようだ。私が図らずも無職になったとき、「大沢さんがこの機会に本気になって小説を書いて、どこかに入賞したらどうしよう」と恐れていたという。これを取り越し苦労という。
 むかし脚本家の長坂秀佳がテレビのプロデューサーと衝突して干されたとき、時間ができたからと小説を書き、江戸川乱歩賞を獲ったことがあった。 才能がある人は、谷川浩司八段がそこにあるミカンを取るがごとく名人を獲ったように、意識せずとも傑作をモノにできるのである。
 作曲家の宇崎竜童は作曲の際「音符が天から降ってくる」と言ったがこれこそ天才の言葉であって、凡才の私には無から有を作り出すことなどとうてい出来ない。天から文章など降ってこない。
 当ブログも毎日のネタ探しに苦労しているし、文章もかなり推敲を重ねている。しかし旬日が経ち読み直すと、ところどころ瑕疵が見える。文章の途中で微妙なつっかえがあり、平坦な道に石ころが転がっている感じだ。どう整備しても、がたつきが残っているのだ。
 そこへいくとA氏の文章はうまい。さすがプロというかその文章は、潮が引いて真っ平になった砂浜のごとくで、何のストレスもなくスラスラ読める。A氏が将棋のプロなら私はせいぜいアマ有段で、ここに彼我のレベルの差を痛感するのだ。
 それなら私がA氏の文章を熟読し勉強すればいいのだが、そこまで私は向上心を持ち合わせていない。だからA氏のブログも積極的に読んでいない。 ここが私の甘いところである。
 ブックマークだけでもしとこうか。

 ぼくがnoteで書いた記事のことを取り上げて、大沢さんも書いてくれたのだ。おそらく彼のことだからブックマークなどしていないと思うが、でも記事はぽつりぽつりと読んでくれてはいるようだ。
 
 大沢さんの文章はなによりテンポがいいが、それは文章のリズムを意識して書いているからだ。ブログのエントリーにフィクションはめったにないので、オチは付けるが、そう盛り上がりを必要としないのでリズム重視なのだろう。ぼくはやっぱり小説が好きでフィクションを書くことが多いので、リズム以上にスピードを意識してしまう。リズムとスピードは同じようなものだが、スピードの方が強弱がはげしい。フィクションには盛り上がる場面が必要で、その場面ではスピード感を出したいのだ。
 
 スピード感を出すのに必要なのは、スピード感が出る場面の前を、いかにスローに落とすかということ。スピード感なんてそうそう出るものではないから、錯覚でスピードがあるように感じさせるのだ。投手が捨て球でスローなボール球を投げるようなもの。
 
 ブログでも書かれているが、大沢さんとは将棋つながりなのに将棋の話はあまりせず、文章の話が多い。ぼくにとっても楽しい時間だ。昨年一度、コロナ渦を衝いて都心から東京のへき地まで来てくれたが、緊急事態宣言下ではさすがに無理だが、ちょっと落ち着いたらまた来てもらいたいものだ。お互い無駄に背が高いので、どちらも猫背気味だ。そしてまた、ぼそぼそと話す。昨年はそのちょっと異様な対談が2回止まりだったが、今年は3回いきたいものだ。でもむずかしいかな。

書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。