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【小説】武中ゆいか「行き交うわたしたち」

今月はゲスト作家として武中ゆいかさんが登場です。
「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」
この曲の歌詞をあなたはどう受け止めますか?
※こちらは全文無料でお読みいただけます。

「意味なんか ないさ暮らしがあるだけ」軽妙なリズムとふんわりとした甘やかな声が真っ暗な部屋にラジオから流れてきた。

「意味なんかない」
25年間。生きるのには何かしら意味があると思って、思い込んで生きてきた美歩には、その歌詞はあまりに衝撃的で、曲が続いていくのも忘れ、頭の中でその歌詞をリフレインする。
「意味なんかない、か……」ベッドに潜りこみながら、誰に言うでもなく美歩はぽつりと零した。

「おはようございます!」
直射日光で体力がじりじりと奪われる暑い朝、溢れんばかりのエネルギーを振りまく藤井の出力120%はありそうな挨拶が、人々が忙しなく行きかう駅に響いた。美歩はそんな藤井のほとばしる若さに、鬱陶しさと少しの羨ましさを感じながら返事をした。
「おはよう。今日は3店舗回るから予定だから、よろしく」
「はい! よろしくお願いします!」

藤井はこの7月から美歩のいる部署にOJTで回ってきている。課長直々の指名で入社3年目の美歩が藤井の教育係だ。中高大、とそれまで部活やサークルで後輩との付き合いが不得手だった美歩は、藤井をどう指導していいかまだ分からないでいた。「先輩」に後輩らしく付いていく方が、難しいことを考えずに済んだからだ。美歩は人に媚びたり、懐いたりするのが得意な方ではなかった。けれど、生存戦略として他人に媚びたり懐いたりする振りをするのは苦痛ではなかった。
誰かと上手くやっていくには、相手の望むものに擬態し当たり障りなくやっていく、それが美歩が努力して25年で身につけた処世術だった。
だから美歩は自分を先輩として扱う後輩というものがどうにも苦手 だった。後輩もまた、先輩に良い顔を見せる美歩と同じように、円滑なコミュニケーションという名目で美歩を接待しているのではないか、と不安に駆られてしまうからだった。

「今日の美歩さんのレイヤードスタイルいいですね」
「まあね」
「アパレルに入って思ったんですけど、みんなお洒落じゃないですか。でも美歩さんってその中でキメすぎてないっていうか。緩いのにキマッてるっていうか」
「それって結局キマッてるのかキマッてないのかどっちなの」
「キマッてるってことですよ!」
藤井がマスク越しでも分かるくらい人懐っこい顔をして美歩を上から見下ろしている。
「ありがとう」
美歩は視線を感じたが目も合わせようとせず、ぶっきらぼうに答えた。
藤井のきらきらとした目が美歩には耐えがたかった。あの真っ直ぐな眼差しを向けられると、当たり障りない態度を取っている全てを見透かされているような気がしてしまい、きまりが悪くなるのだ。だから藤井とは1秒以上視線を絡ませない、と美歩は強く意識している。
藤井の子供のような無邪気で素直な瞳は、社会でうまく生きていくためにずるいことも、あざといことも覚えた美歩にはあまりに純粋無垢で、藤井を汚してしまいそうなそんな感覚さえあった。

「おはようございますっ!」
客のいない開店前の静かな店内に藤井の声が響き渡る。
「あ! 藤井さん。おはようございます」
販売員の水沢あかりが弾んだ声でレジから顔を覗かせた。
「おはようございます」
美歩も藤井に続いて声をかける。
「岩渕さんもおはようございます」
あかりの眼中には藤井しかいなかったのだろう。たった今、美歩の存在に気付いたかのようだった。あかりは自分の最大限の可愛さを振りまくようにとびきりの笑顔を美歩に向けた。岩渕さん「も」の言葉がべっとりと耳に張り付いたが、美歩はそのノイズから意識を遠ざけ、得意の営業スマイルを返す。あかりは既に美歩の方など見向きもしておらず、藤井を潤んだ瞳で見つめながら相槌を打っていた。あかりのテリトリーの中にいても、藤井はいつもと変わらず溌溂とした爽やかさをまとっていた。それが美歩に悔しさに似たぐつぐつとした感情を引き起こさせた。蚊帳の外にされている疎外感、というよりむしろ藤井が持つ、人を惹きつける天然の蜜のような香りに嫉妬していた。藤井の周りにはいつも人が寄せ付けられていくのだった。美歩が新卒の時から必死に先輩について回っている得意先でも、藤井は初めての挨拶から担当者に気に入られることがあった。そしてそれは一度や二度ではなかったのだ。美歩が何度も足を運び、何度も愚直な姿勢をみせ、やっとの思いで信頼を得た気難しいテーラーのオーナーですら、すぐに藤井を気にいり、美歩に「いい後輩がついたね」と耳打ちしてきたこともあった。あかりが藤井に惹かれているのが、恋愛感情かどうかは美歩にとっては重要ではなかった。ただ、出会った人の懐にすっと入り込み、いつのまにか可愛がられる藤井のその才能が、美歩には何の努力も苦労もしていないように見えてしまい苦しかった。

「意味なんかない」

昨晩、嫌というほど頭の中でリピートされた言葉がガンガンと鳴り響いた。

「岩渕さん?」
藤井が覗き込むように美歩を見つめていた。
「え、ごめん。なに?」
「さっきから呼んでたのに全然聞こえてないみたいで、もしかして体調悪いですか?」
「大丈夫、次のスケジュールのこと考えていて」
「ならいいんですけど……あ、これ水沢さんからもらった資料です。やっぱりメンズは伸びが悪いみたいです」
美歩は藤井から資料を受け取り、ざっと目を通した。
「そうね、データをまとめて次のミーティングで議題にあげましょう」
「はい!」
普段通りの美歩のてきぱきとした口調に安心したのか、藤井は柔らかい笑顔で返事をした。
「それから水沢さんにメンズ商品接客中のお客さんの反応も聞いておいて。体感レベルのもので構わないから。春物商品の時から変化を感じた部分があればそこを重点的に」
「分かりました!」
従順な犬のように美歩の指示に従い、オープン前の準備をしているあかりの元へ飛んでいく。藤井に話しかけれたあかりは先ほどより半オクターブくらい高い声で楽しそうに話している。
生理以外で仕事中の業務に集中できないのは美歩にはめずらしいことだった。藤井とあかりの声のボリュームを意識的にノイズキャンセリングし、美歩は手元の数字を睨みつけた。外界からの音をシャットダウンすると、かき乱されそうになった心も自然と落ち着いてきた。美歩は素数を数えて落ち着くタイプの人間を信用していなかったが、数字には人を鎮める何かがあるのかもしれない、とぼんやり頭の隅で考えた。
「ヒアリング終わりました!」
藤井の勢いある声がノイズキャンセリングを途切れさせた。次第に周囲の雑音が戻ってくる。
「ありがとう、じゃあ次の店舗に移動しましょうか」
猫なで声のあかりを背に、次は店長が早番の時に回ろうと美歩は心の中にメモをした。

次の店舗へはタクシーで向かいたかったが、最近部長から経費削減のお達しがあったため地下鉄の駅をめざす。幸い今日は店舗から回収する物品も社からの持ち込みもなく、美歩も藤井も身軽だった。駅に着き、階段をくだると地下鉄特有の少し湿り気をおびたカビくさい風が、夏の蒸された熱でさらに湿度を増し、肌にまとわりついた。
「暑いですねえ」
藤井が額にうっすら汗を滲ませ、美歩に同意を求める。
「そうね……」
暑さで余計な話をする余裕すらない美歩はうなだれながら返した。
地下鉄のホームは地上の熱気からはいささか涼しく感じたが、それでも、むわっとした熱を帯びていた。
電車がホームに流れ込んできて、扉が開く。その瞬間、車内の冷気が体を包む。
「涼しい」
美歩は思わず声に出していた。
藤井も
「はぁ、生き返る」
と、心底安心したような声を出し電車に乗り込んだ。

車内は冷えていたが、数分もすれば、最初の天国のような涼しさにも慣れてしまう。今は感染症対策として窓がところどころ開いていて、それが冷気を少しずつ逃がしているようだった。レールを走る車輪の音が地下鉄のトンネルに反響し、うるさく車内を満たしている。
「岩渕さんって普段どんな音楽聞くんですか」
藤井が美歩の耳元に寄りながら話しかけた。
「どんなって……藤井くんはどんな音楽聞くの」
「先に訊いたのは僕なのに、ずるいなあ」
ずるいと言いながらも藤井は上機嫌で続ける。
「僕は最近YOASOBIにハマってます」
「あぁ」
美歩は思わず、若い子が聴く音楽だと思った。がそれを口には出さなかった。他人からみれば25の美歩だって十分若い子に振り分けられるし、美歩自身もまだ若い部類に属している自覚があった。ただ、そういう流行りの最先端の音楽を聴く、その行為自体が美歩にはもうない、若さの象徴のような気もしていた。たった3歳。されど3歳。3年前にはたしかに美歩にもあったであろう若さの煌めきを携えた藤井と、それをいつの間にか失った今の美歩では立っている場所も見えている景色も違うのだった。
「で、岩渕さんは?」
「最近、ずっと頭の中で流れてる曲があって。星野源の『恋』なんだけど」
「いいですよね!星野源」
藤井が尻尾をぶんぶん振った犬のように答える。
「でもあの曲ってちょっと辛辣じゃない?」
美歩は思わず反論する。
「だって『意味なんかないさ暮らしがあるだけ』なんて。意味がないのに暮らしていくしかないみたいで」
美歩の反論に藤井はきょとんとした顔をして、美歩をあの真っ直ぐな目で不思議そうに見つめる。美歩はその目で見つめられ、気まずくなってさらにまくし立てた。
「生きることに意味がなければ、どうやって毎日やり過ごしていけばいいのか……私には分からない」
一息で言い終え、俯いた美歩を覗き込むように藤井がスマホをいじりながら、
「美歩さん、その続きもちゃんと聞きました? ほら一緒に歌詞見ましょうよ」
藤井が美歩を名前で呼んだことに美歩は一瞬たじろいだが、なぜだか心地よい耳触りで、藤井に今それを指摘するのは無粋な気がした。あたたかい響きを噛みしめながら、美歩は黙って藤井のスマホに視線を落とした。

「ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ」

「これって好きな人と一緒にいるのに意味なんて必要ない、好きってだけで良いってことじゃないですか」
藤井が赤子をあやすような優しい口調で美歩に囁く。
「特別な意味なんてなくても、君との暮らしがあっていい。意味がなくたって大切にしたり、大事にしたりしても良いんだよって歌ってるんだと思うんですよね」
藤井がスマホの画面から視線を外し、美歩の表情を確かめるように目を合わせた。
「そっか、そうかもしれない」
美歩は「意味なんかない 暮らしがあるだけ」を1人で虚しく生きていくことだと捉えていた。でも藤井が言ったようにこの歌詞はもしかしたらそうじゃないのかもしれない。暮らしがあるのは君との暮らしなのだ。誰かを愛おしく思う気持ちに他人に説明するための意味や理由づけなど必要じゃない。
「僕も最初、美歩さんと同じように解釈したんですけど、歌詞だけを何度もおってみたらこういう考え方もありかもしれないなって」
藤井は美歩に感心されたのがよほど嬉しかったのか、照れくさそうに早口でぼそぼそと呟いた。
「美歩さんにそう言われると自信が持てます」
藤井の耳がほのかに赤みを増していた。美歩は藤井の人から好かれる才能は、藤井が自ら得たものかもしれない、とふと感じた。何度も言葉をおって、繰り返し考えるのは決して容易ではない。藤井も美歩と同じように、1人で、誰にも見えないところで、今を身につけてきたのかもしれない。

車内アナウンスが流れる。
「あ、ここですよね?」
いつも通りの人懐っこい藤井の声が降ってくる。

「ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ」
美歩を待つ君はいない。でもいつかそんな君ができたら、意味なんか求めなくてもいいのかもしれない。
美歩の喉の奥につかえていたものが、藤井の言葉ですっと消えていくようだった。

藤井のような真っ直ぐで素直な後輩とどう接したらいいかはやっぱりまだよく分からない。けれど、藤井の真っ直ぐさに怖がらず目を合わせてみてもいいのかもしれない。
「そう、降りるよ」
いつも通りの先輩モードで美歩は藤井を見上げた。
藤井がマスクの奥で穏やかに笑っている。
それぞれの暮らしが、今、交差する。

END

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