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【小説】ふくだりょうこ『出会う前から好きでした。』第1話

最悪だ。
心の中で叫んだ。
会社での飲み会。そろそろお開き、というタイミングで席を立ったら、戻ってきたときには先輩の坂井さんしか残っていなかった。

「あの……ほかのみんなは?」
「もう帰ったよ。僕は君が戻ってくるのを待っていたんだ。誰もいなかったら寂しいでしょ?」

マスクをつけていない酒井の口元がだらしなく歪んだ。
私が勤めているのは小さな派遣会社だ。家庭教師のあっせんをしている。社員は私と、社長と、一応先輩の坂井。あと事務のバイトの女の子が1人。その日は、私たち社員のほか、家庭教師として登録している大学生数名を交えての飲み会だった。
坂井さんは何かと私にネチネチと言ってくる人で、セクハラまがいのセリフも何度も投げかけられている。いつも聞こえていないフリをしているけど、どうやら、入社してすぐに食事の誘いを断ったのが気に入らなかったらしい。

「じゃあ、私も帰りますね。お疲れさまでした」
「あっ、あっ、ちょっと待ってよ」

坂井さんの声が追いかけてきたけど、構わず店を出る。
ここで掴まってしまったら、厄介なのは十分にわかっていた。
駅まで行っていたら追いつかれる。さっさと大通りに出てタクシーを拾おう。
でも、坂井はいつになく素早い行動を見せた。

「たまにはいいじゃないか、もう一軒付き合ってくれよ」
「明日は朝から打ち合わせがあるので……」
「大丈夫だって。君が担当なら、大した案件じゃないでしょ」

カチンと来たけれど、黙って手を挙げてタクシーを止める。

「タクシー? ちょうどいいや、僕も一緒に乗せてよ」
「なら、坂井さんが先にどうぞ。私はもう一台止めますので」
「途中まで、いいじゃないか」

先にタクシーに乗り込んだ坂井さんに、グッと手首を握られた。
思いのほか強い力で、ふりほどけない。

「いや……っ」

思わず、声が出たときだった。

「……無理やりは、よくないんじゃないの?」

背後から、妙にドスのきいた低い声が聞こえた。
振り返るよりも早く、私から坂井の手が離れる。
その瞬間、私と坂井の間にスーツ姿の男性が割って入った。

「ここから一番近い駅まで、お願いします」

男性はタクシーの運転手にそう告げると、強引にドアを閉めた。
あっけにとられたような坂井がこちらを見ている。口をパクパクとさせて何か言っていたが、当然、私には聞こえない。そのままタクシーは走り出した。
遠のいていくタクシーを見送り、私はその場に崩れ落ちた。
今までも食事に誘われたり、強引に迫られそうになったことはあったけど、今日ほど力ずくで来られたことはなかった。怖かった。

「……大丈夫?」

助けてくれた男性が私と視線を合わせるようにして、しゃがみこんだ。
そこで初めて、男性の顔をちゃんと見た。
ドスのきいた声とは不似合いな優しそうな目をしていた。

「あ……ありがとうございました。助かりました」
「いや……不穏そうだったから、思わず。迷惑じゃなかった?」

さっきまでとは打って変わって落ち着いたトーンの声。
私はフルフルッと首を横に振った。

「どうした……?」

心配そうな表情で尋ねられて、ようやく自覚した。
自分の頬が濡れていることに。
怖かった。
そして、悔しかった。ちゃんと自分で対処できなかったことが。

「す、すみません……」
「いいけど、とりあえず、立ったほうがいいかも」

視線を上げると、チラチラとこちらを見ている人は少なからずいた。
これではせっかく助けてくれたこの男性にも迷惑がかかってしまう。

「タクシー、もう一回拾う?」
「いえ……駅まで歩きます。ここから10分程度ですし」
「そう?」

それから、ハンカチを私に差し出した。

「とりあえず、拭いたら? 目元がひどいことになってるよ」
「……ありがとうございます」

素直に受け取り、目元にあてる。
ハンカチはわずかに柔軟剤の匂いがして、ますます私の涙を誘った。

「……びっくりした」
「え?」
「さっきの男に対して、毅然と対応していたから。……いや、でも怖いよな、あんなふうに強引なことされたら」
「…………」

そりゃあ、初対面の女が突然泣き出したらびっくりするだろう。
でも、素直にびっくりした、なんて言われて、妙に冷静になった自分もいた。
じっと見つめ返すと、男性は苦笑いを浮かべる。

「なに?」
「あ……ごめんなさい。いい人だな、と思って」

見ず知らずの私を助けてくれたのもそうだけれど、なんとなく、思ったことをそのまま口にしている印象があった。
それが、マイナスに働いてしまうこともあるかもしれないけれど、今の私にはすごく安心できる材料だった。嫌いな男に騙し討ちのようなことをされたからかもしれない。

「どうだろうね。いい人じゃないかもしれないよ」
「そうですか?」
「もしかしたら、君のストーカーで、君が危険に陥るのを待っていたかもしれない。サッと助けに入って、好印象を与えるために」
「そう……なんですか?」
「例えば、の話だよ」

男性はわずかに微笑んで視線を下げたあと、大通りに向かって手を上げた。すぐにタクシーが止まる。

「あの……?」
「気付かなくてごめん。膝、怪我してる」
「……あ、ほんとだ……」

さっきしゃがみこんだとき、アスファルトに膝をこすってしまったんだろうか。ストッキングが破れ、血が滲んでいた。いろんなことで感覚がバカになっていたらしい。言われてようやく痛みを感じた。

「ケガをした状態でフラフラ駅に歩いていくのも危ないだろうし。タクシー乗って帰りな」
「……ありがとうございます」

素直にタクシーに乗り込む。
男性は軽く手を振り、タクシーが走り出すよりも先に背を向けた。
運転手に行先を告げ、ホッと息をついたところで、「あっ」と声を漏らす。

「ハンカチ、返すの忘れた……」

同時に、ハンカチに何か挟まっていることに気がつく。
1枚の名刺。
なんで名刺が? という疑問のあと、彼が言っていた言葉を思い出す。

『もしかしたら、君のストーカーで、君が危険に陥るのを待っていたかもしれない』

いやいや、そんなまさか、と心の中で否定するけれど、可能性がないわけではない。危険な目に遭ったところを助けて、名刺を挟んだハンカチを渡し、恩を感じた私が連絡をする……とか?
例えば、ストーカーだとして、どこかで会ったことがあるだろうか。人に好かれるようなことをしただろうか。もしくは、どこかで私を見かけて? ……いや、そんなヒトメボレをされるような外見ではない自覚は、さすがにある。
だとしたら、たまたま、ハンカチに名刺が挟まっていた、というパターンが一番現実的なもののように思えた。

なんとなく、申し訳ないなと思いつつ、名刺に視線を落とす。こうしてみると、名刺というのは個人情報がパンパンに詰まっているものだと、呑気な感心をしてしまう。
会社名、会社の住所、名前、携帯の番号、メールアドレス。
ハンカチを返すために、連絡をしたほうがいいのだろうか。
いや、ハンカチごときで。

頭を背もたれに預ける。
考えるのがしんどくなってきた。
ハンカチを雑にバッグにギュッと押し込む。
明日、ハンカチのことを思い出したときにどうするか考えよう。
今はただ、無性に目を閉じたくて仕方がなかった。

(続)

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