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【エッセイ】織田麻『暮らしの手記』

今月はゲスト作家として織田麻さんが登場です。
「暮らし」ってなんだろう? そんなことを改めて考えさせられます。
※こちらは全文無料でお読みいただけます。

6月のとある正午、ベランダにて栽培しているハーブに薄紫色の花がさいた。4種類のハーブを植えていて、ミント、バジル、タイム、レモンバーム、名前を覚えるだけでも一苦労だ。最近は日差しが強い。やはり植物は太陽があると急成長するらしく、ハーブの背が急に高くなった。時の流れは、巣ごもりの間も変わらず淡々と流れていることを思い知る。私はハーブに水をやりながら「ベランダで植物を育てる」という行為を私が生涯で一回でもするとは思わなかったな、と思う。

「ていねいな暮らし」とか「暮らし上手」という言葉が心底苦手であり、生活をよりよくしよう、なんて考えたことがあまりなかった。こういうのは、オーガニックとか、インスタ映えとか、そういう言葉が好きな女の人がやることだと思っていた。

何かと「暮らし」という言葉を避けて生きてきたような気がする。

なぜなら「暮らし」という単語に怒られそうな生活をしていたからだ。「暮らし」という言葉が似合うのは「ていねい」という修飾語である。「暮らし」は同義語である「生活」よりもていねいなイメージがあり、私の崩れた生活を表すには気おくれしてしまう。そんな私にとって、「暮らし」は生活指導の先生ないしは、口うるさいママみたいな言葉だ。

「暮らし」が似合う生活はきっとこんな生活だ、と思っていた。朝起きてまず窓を開けて、風を感じる。朝食は焼き立てのトーストとスムージー。出社前にストレッチをする時間的余裕だってある。颯爽と出勤し、スーツを着こなし、やりがいのある仕事をてきぱきとこなした後、気が置けない同僚と話題のお店でランチをとる。お気に入りの家具で埋め尽くされた部屋に帰った後はこだわりぬいたオーガニックの食材で自炊した夕食を作り、入浴剤を入れたバスタブにしっかりと浸かり、一日の疲れを十分にとって眠りにつくのである。Youtuberのモーニングルーティン、ナイトルーティンにありがちな感じだ。

私の生活はそんな「ていねいな生活」とはかけ離れていた。なるべくギリギリに起きて、朝食は食べずにバタバタと出勤準備をする。慌てる心を抑え、ベッドから降りて、歯を磨いて、スーツを着て、化粧をする。一切のロスタイムもイレギュラーも許されていない朝の動線。昼間はせっせと仕事をして、生まれてしまった負の感情は隠したまま自宅へ持ち帰る。夜はコンビニによっていつもと同じカレーを買って帰宅する。資格や仕事の勉強に追われ、疲れたままテレビをみて寝る、という感情とは裏腹に単調な生活をしていた。それが私のコロナ以前である。

そんな混沌と単調の日々を送っていたから、メディアに広がる「ていねいな暮らし」「暮らし上手」とは無縁だった。そればかりか、上っ面の言葉のようで、それらの言葉をどこか見下していたところもあった。日々の雑事や仕事で精いっぱいなのに、「生活」までていねいに、上手になんてできるわけがない。そんな人は努力をしていないか、余裕のある人の特権だ、そう思っていた。どうも私はいつも満たされていなかった。

そして「満たされない何か」は「おしゃれな生活をすること、着飾ること」ではなく「何かを成し遂げること」で埋まるものだと考えていた節があったのかもしれない。私は暮らしや生活を置き去りにして、部屋にほこりを積もらせていたし、時間は経験や知識かお金に換えるもので、無駄に流れていったりしてはいけないものだと認識していた。だからどうも暮らしを大事にする時間が何を与えてくれるのかがわからず、「暮らしを大事に」という言葉自体にしっくりとこなかったのである。

思えば、働いている時に限らず、学生時代から「生活」や「暮らし」というものに目を向けずにやってきた気がする、と気づいたのは、忌々しいコロナが襲ってきて「仕事」「義務」がなくなってからの事だった。

*

夕方になり、旅行があまりに恋しくてパソコンで世界遺産の画像を眺めていると、網戸の隙間から、涼しいな風が流れこみ、頬に触れた。

パソコンから顔を上げると、ベランダと家を区切る網戸は茜色の風景を無数に等分していた。液晶に映る膨大なビットの集合体で作られた世界遺産の写真を思わず見比べる。パソコンの液晶は突き破ってもどうにもならないけれども、網戸の向こうは飛び越えることができる。網戸を開け、ひんやりとした午後六時半の風を浴びた。睦月某日、夕暮れはまだ終わらなかった。

夕暮れ、と頭に思い浮かべながら、「暮らし」はなぜ「暮」という感じがあてがわれているのだろうか。ふいに待ち合わせた夕日を眺めながら、ぼんやり、考えてみた。

「暮」は「日が暮れる」というように「季節・年・人生などの終わり」という意味でも使われている。そう考えると「ていねい」とか「おしゃれ」なイメージだと思っていた「暮らす」という言葉はたちまち姿を変える。ただ粛々と、太陽が落ちるまで、はたまた人生が終わるまで、与えられた時間を受け止めるように過ごしていく修行僧の様のように見えなくもない。そう考えると「上っ面」しか見てなかったのはどっちなんだ、と過去の自分を問い詰めてしまいたくなる。

なぜ平日の昼間にインターネットサーフィンなんてして時間を持て余しているかというと、本来観光系の仕事をしているはずなのだが、昨年の4月から、コロナの影響を受けて、会社から休職を命じられた。

状況が良くなれば出勤はしているとはいえ、基本的に緊急事態宣言とコロナ感染者数増加ははいたちごっこなので、昨年からの稼働日数はさすがに両手では足りないが、足の指も使えば足りると思う。

従業員を休業させることで国から給付されるお金を得るために、私はベーシックインカムに毛が生えた程度の、贅沢をしなければなんとか暮らしていけるほどのお金をもらい休んでいる。

忌まわしきコロナに影響を多大に受けていることには間違いがないが、時がたてばたつほど、「影響を受けているとはいえ、極めて恵まれている部類」であると思い知らされる。ちぐはぐな政策に振り回される飲食業界。何度斬ってもいなくならないコロナウイルスによってひっ迫する医療現場。経済悪化によってリストラされた人たち。同じ観光業界でも、現場の最前線で働いている人たちは、ある程度仕方がないとはいえ、あまりにも朝令改暮の観光政策に振り回されて疲弊している。

それらと比べれば、私は肉体的に全く疲弊していない。コロナ以前よりも年はくっているのに、役には立っていない。周りはコロナ禍にも負けずに頑張っている。その事実を受け止めるごとに、精神的には参ってしまう。

つらさは種類も感じ方もひとそれぞれ、というのはわかっている。わかっているのだが、そんなこと、本当はつらいなんて感じてはいけないような気がする。それでも蛇口の水を出しっぱなしにしているような、20代後半の若い時間をただ無駄にし、うまく消費ができない焦りのような感情を持ってしまうこともあるのだ。

今考えるとエッセイのようなものを書き始め、インターネットに投稿する様になったのも、水をためておきたかった、すなわちできるだけこの時間に名前を付けたかったから、なのかもしれない。

とにかく、この精神的な焦りを落ち着けるために、あるいは目を背けるために、私は日々の生活に目を向け始めた。
ずっと家にいると、自分の家がそれなりに広いことに気が付く。逆にいうと、今まで4、5年住んでいた家のことをあまり知らなかったことに気が付いた。

そもそも今まで家は寝るための場所だったし、座椅子が唯一の定位置だった。しかし、ずっと家で過ごしていろ、と言われて同じ場所に座っているということはなかなか難しいのである。とはいってもやはり座るのであれば座椅子にすわりたい。だから私は模様替え、というほど大げさなものではないのだが、何度も椅子とテーブルを動かし、視点を変えるということをやっていた。

いつもいるはずの家がそれだけでも違う場所に見えるし、精神衛生上も少しは良くなる気がした。私はこれを戦略的室内移動と呼んでいる。

その戦略的室内移動の一環として、ベランダにしょっちゅう出るようになったのは今年の春ごろの話である。社会人になってこの家に住み始めたころはこの広めの「ベランダ」がとても素敵なものに見えて、ベランダに椅子をおいて、コーヒーを飲むのもよいな、と思って、ひとつの椅子をベランダに設置したのだが、日々の忙しさにすっかりそんな小さな夢をわすれてしまっていた。だから、忘れられた椅子は、すっかり雨にさらされ足がさび付いていた。

小さな夢を思い出させてくれたのはそんな戦略的室内移動と路に咲く春の桜、である。家の中を移動するのにも飽きて、今度はベランダで風を浴びながら何かしようと思ったときにベランダに置きっぱなしの椅子を思い出したのだった。私の家はベランダから桜が見える。桜が咲くのであれば、コーヒーを淹れてベランダでお花見をしようと思いたち、さっそく暖かい春の日差しを感じる日は、ベランダに出て太陽を浴びながら何かすることにした。

ベランダから見える桜は美しく、日々少しずつ緑へと近づき、グラデーションを作るのもきれいで、鮮やかな色の変化を感じることができた。そしてこうも思った。

私はこの美しい景色と一杯の安息を何度無駄にしたのであろうか。

結局今は「暮らし」を見つめて生きていくことを選択せざるを得ない。日が昇り、日が暮れていくまで耐え忍ぶその時間からできるだけ目を離さないでいるしかないのだ。そしてできればこの空白の時間に色を付けるために、目に見えたものを書き留めている。


ただ暮らしを大事にすることは小さな日常を見つめて喜びを感じる事なのではないか、と思う。それは雑誌で取り上げられるような「ていねいな暮らし特集」に乗っているお皿や家具だけではなく、雨ざらしでさび付いた椅子に座ってコーヒーを飲んで桜を眺むことも同じだ。そして、それは社会の大きな歯車のひとつとして傷ついた私を癒すものなのだと思う。薬はその人にとって手軽で自然な程よいのである。

*

夜になり、南の空に煌々と満月が浮かんだ。東の空には星のような閃光が見えた。星にしては少し大きいような気がして、惑星かな、と思い、調べてみると木星だった。星空なんてどうせ見えないと、月にしか注目しないのだが、目を凝らして夜空を見上げるのもたまには良い。

さて、静寂の夜の力を借りてすら、うまく言葉が紡げずいた今夜、夜風を感じベランダにてこの文章を書いている。かすかな外気の雑音はするのだが、家の中よりも夜の暗さを感じることができて、より静寂を感じることができるのは不思議だ。

さて、私は日々の小さな変化をこれからも大事にできるのだろうか。

「暮らし」という言葉が、「おしゃれ女子」だけに許されたものではないことは理解した。日々が循環する単調な繰り返しが「暮らし」とするならば、そこに小さな幸せを見つけることが、資本社会に組み込まれた私たちの薬であることも承知した。

しかし、実際のところどうだろうか。先ほども申し伝えた通り、お金をいただいて社会から切り離された現在、孤独だとわめいても、鬱屈だと嘆いても、結局のところ恵まれているのである。「暮らしを見つめざるを得ない」と言っても、それをするだけの余裕が、経済的にも精神的にもあるのだ。例えば、お金が支給されていなかったら、私はとにかく「明日どう生きるか」考え、暮れていく日々を恐れていただろう。

結局のところどうなのだろうか。コロナが終われば私は社会の大きな歯車のひとつになって大きなものを、例えば、売り上げ、ノルマ、折り合い、その先にある成功が欲しくなるものではないのか。

春と秋を惜しみ、夏を懐かしみ、冬を耐え忍びながら、日々の生活を記憶と記録に残す、というのは、しょせん期間限定の薬なのではないだろうか。いまここに書き綴っていることは単なる「能天気」なのではないだろうか。

その答えが出るのはもう少し未来の話なのかもしれない。しかし、できるだけ、この巣ごもりから脱出したとしても、この薬が効く自分でありたいな、と強く思う。


ベランダで夜外気を浴びながら、誰に見せるわけでもない今日の雑記を書いている。ただ日々をつかむようにして、大きな幸せもいいけれども、ただ気づくだけでみつかる小さな幸せを忘れないように、キーボードへ打ち付ける。何もなかったような日々でも、今日テレビで見た犬猫がかわいくて笑ったこと、いつもより少しだけ気合をいれて窓をふいたこと、何もないなんてことはない。

これが永遠の習慣になりますように。

初夏の夜の風の冷たさに吹かれながら、文章を書いている。画面の明るさをめざして、名もなき虫が集まってきた。とるにたらない余聞なことをうだうだと考えて、経験は積み重ねずとも記憶と思考を重ねながら、今日が暮れる。

END

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