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【小説】藤宮ニア『私たちの幸い』

「マッサン」
「え? 何?」
「ま・っ・さ・ん」
「……いや、誰?」
「もぉ、違うてぇ」
 ふにゃふにゃとへらへらの間のような声を出しながら、狭い玄関のタイルに立つタカハシが手を振る。深夜3時。思わず眉毛の付け根に力を加えたら、ごちゃごちゃと色んなものがついたタカハシの指先が伸びてきて、ちょん、と私の眉間に触れた。
「皺なるでぇ、まいちゃん」
 うるさいわ、と答える代わりに、もう一層深く皺が寄ったのが自分でもわかる。タカハシが「あぁ」と間伸びした声をこぼしながら、ぎゅっぎゅっと何度か皮膚を伸ばすように指を滑らせてくる。ネイルチップが刺さるんじゃないかという心配は、その指でカラコンを入れる姿を見てからいつの間にかなくなった。
「こういうところの皺はぁ、大きくなったら取れへんくなるってセンセイが言ってたよぉ?」
 指が動く度、タカハシがつけているバングルやブレスレットがチャラチャラと音を立てる。手首にとどまるはずのものが腕まで滑り落ちて、中途半端なところで集まった。動くたびに音がするそれは、猫につける鈴の首輪みたいだなと思う。
 犬の首輪も鳴るんやっけと考えていたら、眉間からも力が抜けたのか、タカハシが満足そうににっこりと笑った。吐息からは明確にアルコールの香りがする。初夏の生ぬるい夜の匂いさえ、纏っているような気がした。
「どんだけ飲んでん」
 口調きもいで、と付け足しながら顔を背けると、「えぇ〜」と気の抜けた声を出すタカハシの顔が追いかけてくる。私がつけると浮いてしまうような鮮やかな口紅がよく馴染んでいる唇が、グロスで膨らんで光っていた。
「よかったねぇ、まいちゃん。皺残らんで」
 にまにま笑う口元はだらしなくて、今のタカハシの状況を簡潔に表しているようだと思う。ドアから入ってきたはずの生ぬるい空気は、室内の冷えた空気に飲み込まれて消えていた。
「っつーか、誰やねん、その“センセイ”。大人に向かってそんな適当な説明すんのやばいやろ」
 何が「大きくなったら」や、と吐き捨てても、タカハシは気にせずに笑っている。上機嫌なのはいつも、決まって急なお出かけの後のこと。
「センセイはぁ、うちの大事な人やで」
 ——ずっとずっと、大事な人や。
 甘い思い出を見つめるような表情に、思わずまた眉間が詰まる。繰り返される深夜のこの時間を、どうしても私は好きになれないままだった。妙に浮かんでしまった空白を埋めるように、わざとらしく声を出す。
「なんでもえぇけど、マッサンて何なん」
 やや強めの声に、タカハシの目線が戻ってくる。マスカラが粉のようになって下瞼に落ちて、アイラインは掠れ、全体的に目元の化粧は薄くなっていた。
「うんとぉ、なんか、幸福の木なんやってぇ。まいちゃん、植物欲しいって言うてたやんかぁ」
 ふにゃふにゃとした喋り方。夢見心地のタカハシが、睡眠の中に割り込んでくる金曜日。
「うちはサボテンが好きやけどぉ、まいちゃんはトゲトゲ苦手やろ?」
 無意識のうちに通せんぼをするみたいに立っていた姿勢を少し緩ませる。「靴脱いだら」と派手なパンプスを示したら、「うん、脱がしてぇ」とタカハシが笑った。

 メイクも落とさず、服も着替えずに布団に沈んでしまったタカハシの寝顔を覗く。コンタクトは外さないとやばいのではと思うけれど、寝ている人間の瞼を開いてコンタクトを外すなんて芸当ができる気はしないので、放っておくことにする。いつか瞼がくっついて開かなくなったり失明したりして、「まいちゃん、どうしよう」なんて泣きついてくる姿を想像すると少し気分が良かった。たった一晩の横着が人生を狂わすこともあるってことを、タカハシみたいな人間は知るといい。深夜のインターホンに叩き起こされた人間は、こうして少しずつ相手を呪っていくのだということも。
「寝るか……」
 秒針を刻む時計の音に、タカハシの寝息が混じる。一緒に暮らし始めて2年の間に、こういう夜はもう何度もあった。

 タカハシとはシェアメイト募集のサイトを通じて出会った。年齢も近くて、希望条件も同じで、好きな家事はそれぞれ違う。メールのやりとりからLINEに移行して、一度会ってみるまでそう時間は掛からなかった。
「あ! まいさんですか?」
 待ち合わせ場所にやってきたタカハシは、想像していたよりも背が高く、想像通りにこやかで眩しい人だった。こんにちはとか初めましてとかもごもご挨拶する私を馬鹿にする素振りも見せず、初対面の彼女はニコニコして「本物やぁ、会えて嬉しい」なんて感激していた。
「えっと……じゃあ、なんか適当にカフェとか入ります……? ご飯食べてもいいですけど」
「あ、うちが案内します! 行ってみたかった喫茶店があって。ふわとろ系じゃないオムライス食べたいなって。まいちゃん、オムライス好き?」
 弾丸トークを浴びながら、「好きです」と答える。「私も、ふわとろじゃない方が好き」と続けたら、タカハシはキラキラのピアスを揺らして笑った。

 こじんまりした、それでもある程度賑わっている喫茶店に無事滑り込んで、二人してオムライスを食べる。二人がけの席のテーブルはお皿とグラスでパンパンだった。
「なぁ、名前どんなん?」
「ん?」
 ケチャップの乗った卵にスプーンを差し込みながら、タカハシが睫毛を持ち上げて瞳だけで私を見る。
「名前。うちらお互いの本名も知らんやろ?」
 あぁ確かに、と思いながら、口の中のチキンライスを咀嚼する。チキンと玉ねぎとマッシュルーム。シンプルな喫茶店のオムライスなんて久しぶりに食べた。
「確かに。何も知らん」
 アイスコーヒーを飲みつつ頷けば、「ほんまやで」とタカハシが笑う。スプーンを皿の端に寝かして鞄を弄る姿を目に入れながら、何か不思議なことになったな、と不意に思った。
「これでえぇやろ」
 ボールペンを取り出したタカハシが、テーブルの端にあった紙ナプキンを一枚引き抜く。お互いにどんな漢字で名前を書くのかも知らなかった私たちは、それぞれの名前を喫茶店のロゴが入った紙ナプキンにしたためて紹介しあった。
「ハルカ、って読んだりもするよな。これ」
 タカハシが書いた文字を眺めながら何気なく言う。ボールペンを置いたタカハシが「そうやね」と頷いて、私が書いた文字をスプーンで指す。
「そっちは、間違う余地のないマイやな」
 高橋悠と、吉田真衣。
 二つの名前が並んだ記念すべき紙ナプキンは、オムライスを食べ終わる頃にはグラスの水滴で溶けてぐしゃぐしゃになっていた。次にお互いの名前を見たのは部屋を借りる時の書類の中で、その時に初めて、私はタカハシが生物学上は男であるということを知ったのだった。

 チリンチリン、と風鈴が鳴る。引っ越して1週間くらい経った頃に、タカハシが気に入って買ってきたやつだった。二人とも丁寧な暮らしには向いていない人間だったので、それ以来全ての季節をこの窓際で過ごしてきた不憫な風鈴。
「……絶対やばいやろ、その男……」
 センセイ。その名前をタカハシが口に出し始めたのは半年くらい前。こんな風に夜中にベロベロで帰ってくることや、晩御飯の後に出ていくことが増えたのもそれくらいからだった。
 タカハシの表情からして、恋をしていることは丸わかりだった。ネイルにも一層気合いが入るようになったし、髪も派手髪から少しおとなしい色味に変えた。洋服や靴が届く頻度が増えたし、何より、スマホを手に一喜一憂する姿はとても可愛らしいものだった。
「なぁ、好きな人でもできた?」
 そんな風に聞いたのはいつだったか。タカハシは顔を赤くして、「えーっ! なんでわかったん!」と思いっきり肩を叩いた。キラキラした瞳。いいなぁと思いながら、「わかりやすすぎんねん」と笑う私に、タカハシはセンセイのことを話した。
 アプリで出会った人であること。身長はそこまで高くないけれど、線が細くて優しい人であること。ミステリアスな魅力があること。居酒屋もバーもよく知っていること。
 年上で、カメラマンで、ひどい花粉症持ちで、左手の薬指に指輪をはめている、ということ。
 ファッションリング? と聞いた私はさぞ間抜けな顔をしていたことだろう。そんなわけないやろという心の声を代弁するみたいに、タカハシは「んなアホな」と笑った。何もはめていない自分の薬指をさして「ここやで?」と強調する姿が、より一層私を混乱させる。
「不倫ってこと……?」
 それはナシやろ、と思いながら口にする。多分露骨に顔にも出ていただろうから、タカハシが自分のつま先を眺めていてくれて良かったなと思う。
「別に、まだなんもしてへんし」
「まだ、なんや」
 反射的に返した言葉がキツくなった。咄嗟に目をそらしてスマホをいじる。視界の端で、タカハシがこっちを向いているのがわかった。
「……うちも不倫になんのかな」
 なるやろボケ、と言いかけて黙る。こんな時にだけずるい使い方すんなとかそういうことを言ってしまいそうで、けれど、私だってずるい恋愛をしてきた、とも思って。
「不倫はやめときや、訴えられて慰謝料請求されて終わりやで」
 男なんて大量におるんやし。なんて言葉が、こういうときにほど響かないのはどうしてなんだろう。
 その人は一人しかおらんもん、という声が、どこかから聞こえてくるような気がした。

 冷房の風で鳴る風鈴は、幸せなんだろうか。そんなことを考えながら、次第に意識が沈んでいく。呑み込まれていくようなこの感覚が怖くて赤ちゃんは泣き喚くらしいけれど、大人になるとこんなにも心地良く感じるのだから、私たちはすごく、強くなっているのだろう。

「まいちゃんおはよぉ」
 あんなにベロベロだった人が先に起きているなんてと一瞬ショックを受けて、その顔色の悪さに、なんだ気持ち悪くて起きたんかと納得する。「シャワー使うで」とどろどろの体を引きずっていくタカハシを見送りながら、まだ閉めっぱなしだったカーテンを開いた。
「おー」
 快晴オブ快晴。勢いさえ感じる青空と白い雲に、思わず小さく声が出る。お風呂場から聞こえるシャワーの音に、そういえばシャンプーがなくなりそうだったんだと思い出す。
「なぁ、タカハシー。後で買い物行こー」
 多分声は届かないけれど、シンクに向かいながら声を張る。ケトルに水を注いでセットして、洗面所に並ぶ歯ブラシを手にとって。
「なぁ、聞こえたー?」
 風呂場のドアに向かって言えば、「えー?」と大きめの声が返ってくる。見慣れたミントといちごの歯磨き粉。辛いからミントは嫌なんて言うタカハシにイライラしたのももう遠い昔だなと思いながら、ミントのペーストをブラシに落とす。
「買い物行こうって」
 しゃこしゃこ。歯ブラシが行き来する合間に、シャワーの音が弱くなる。
「シャンプー無くなった」
 ドアから顔だけ出したびしょ濡れのタカハシに「知ってる」と返す。買い物の必要性を理解しあったところで、泡だらけになった口の中を濯いだ。沸騰まで漕ぎつけようと頑張っているケトルを強制終了して、シンクに置きっぱなしになっていたマグカップを洗ってインスタントコーヒーの粉を入れる。
「うちもコーヒー欲しい」
「白湯じゃなくて?」
「あんなんただのお湯やろ?」
 いや、お湯やけど。笑いながら、タカハシのマグカップにもコーヒーの粉を入れる。お風呂上がりのタカハシからは、昨日のアルコール臭さは消えていた。
「あかん、牛乳無いわ」
「何も無いなこの家」
 誰のせいやねんと互いに軽口で責め合いながら、薄いブラックコーヒーを啜る。メイクを落としたタカハシの顔はすっきりとして、私は案外こっちの顔も親しみやすくて好きだった。
「シャンプーとぉ、牛乳とー?」
 何買うかメモっとこ、とスマホをタップするタカハシに、「トリートメントもどうせなくなる」「キッチンペーパーあんま無いかも」と指示だけ出しながら、ふと昨晩のやりとりを思い出す。
「あとは?」
 もう何もないか、と部屋を見回すタカハシの、何も塗っていない唇がマグカップに近づいて、コーヒーを啜った。
「……マッサン」
「え?」
「マッサン。買おうや」
 私の言葉に、タカハシが驚いたような顔で私を見遣る。「なんやねん」とぶっきらぼうに返せば、タカハシの眉間にじわりと皺が刻まれていく。
「……いや、誰?」
「人ちゃうわ」
 快晴の、土曜日午前10時半。
 とりあえず今日のところは、二日酔いのルームメイトに幸せをあげるのは、この私ということで。

END

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