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【小説】千羽はる『ささやかに、色を灯す』

ろうそく、というと、やはり思い浮かぶのはケーキである。

真っ白なケーキと真っ赤なイチゴ、その間に上手に配置されたひょうきんなカラフルさを持つ細いあのろうそく。

火をつけるときれいなのに、主役はケーキ。

ケーキにろうが垂れる前に素早く消さなければならないが、なかなか消えなくて結構焦るアレ。

しかし、眼前にあるろうそくは、トモエが知っているひょろひょろのぽきっと簡単に折れそうなケーキのろうそくではなかった。

【和ろうそく】と、書かれている。

「はて、何が違うのでしょう」

誰にも聞こえないように独り言。店内が小さいので、ほとんど口の中でつぶやいたようなものである。

トモエは、すっとスマホを取り出して検索しようとした。

「和ろうそくは、とても日本らしい作りになっているんですよ」

しかしそれよりも先に、にこりと優しく微笑む女性店員が忍びのように近づいてきた。本当に、まったく気配がなかったので、トモエは驚きで顔が引きつるのを何とか抑えた。

「日本らしい、ですか?」

「えぇ。例えば、西洋のキャンドルと比べると、この和ろうそくの火はほとんど揺らぎません。そういう芯になっているんです。考えてみたら、日本の家って昔はほとんど燃えやすい材質でできてますから、あんまり危ないものは使えなかったんでしょうね」

「はぁ、なるほど……」

確かに、時代劇を見ていると木・紙でできた家であり、暗闇がほとんどを占めていたことは容易に想像できる。

「お代官様、どうぞお納めください」「ふふふ、おぬしもわるよのぅ」暗闇の中で行われていたらしい、時代劇の代表シーンが心に浮かぶ。

女性店員は、大小異なる、多くのろうそくがある中、トモエの手のひらに収まる小さな和ろうそくを差し出した。

「今はキャンドルが人気ですから、似たようにアロマが入っているものもあります。でも、私のお勧めはやっぱりこういう小さなろうそくを、壁際で灯していただくのがいいかと」

個人的な感想ですけどねと、はにかみながら言う女性店員に、トモエは心惹かれた。この女性の生活は、とても豊かなものに満ちている。それに羨ましさを感じる自分が、いた。

「キャンドルも素敵です。けど、電気を消して、少し重々しいような、それでいて優しい火が和ろうそくの火なんです。なんだか、キャンドルよりホッとするんですよ」

女性店員の言葉を聞きながら、トモエは彼女が手渡してくれた小さなロウソクを黙って見つめた。

『和ろうそく(小)・5本入りセット(台付属):購入(嗜好品)』

「よし」

トモエは、そう家計簿に記載する。家計簿というとしっかりしている人みたいに聞こえてしまうだろうが、実のところ「衝動買いしてしまってごめんなさい」リストである。

今日、何かを買うつもりはなかった。

先日、何かに追われるように急かされる日々に疲れてしまい、衝動的に、頭をご来光に見立てるというくだらない一発芸を持つ上司の顔面に、辞表を叩きつけてしまった。

晴れて何も考えずフリーターになったトモエは、「まぁとりあえず自由を謳歌するか」と、掃除もサボっていた家から出て散歩をしていたら、「はて、自由とは何か」という哲学的命題を頭の中に抱え始めた。

頭の中と一緒に、街の中でも迷子になっていた時、ふと見つけたのが、くだんの『和ろうそく屋』である。

店の外見は、女性でも一人で入りやすい雑貨屋のよう。

子どもの頃、両親に手を引かれて見に行った高級な仏壇屋にある和ろうそくを想像していたトモエは、その敷居の低さに驚いた。

自分の住んでいる街に、こんな店があるなんて知らない。

一瞬、物語のように異世界にでも迷い込んだのかと思ったが、左右を見回しても平々凡々な住宅街が異世界なわけがない。

ただ単に、トモエが今まで興味を示さなかったのだ。

―――確かに、自分は薄情だと思う。

人・もの・生活、それらに対して興味が薄いのは自覚していた。朝ごはんなんて、コンビニのシリアルでいい。夕飯なんて冷凍のご飯でおいしいものがいくらでもある。数年前に引っ越してきた1LDKの質素な部屋で、トモエが楽しいと思えたことなんて、ゲームか、漫画か、動画くらいだ。

だから、だろうか。昼間出会った和ろうそく屋の店員は、とてもまぶしく見えた。

揺れるイヤリングはオレンジ色の石。シンプルな波打つ細いリングは小指にはまり、彼女の手元を涼やかに引き立てる。喋り方も品が良く、とても好印象な女性。

普段の自分であれば、とてもおしゃれな人だな、と思い、そして忘れていたことだろう。

ただ、今日だけは。

彼女の目が、どんな宝石より、きらきらと輝いて見えた。

大きな湖のように豊かな何かが宿る瞳。満足気で、前を向いて、素敵なことを手をつないで生きている。

自分とは違う世界に、彼女はいる。今日、トモエはそれを見てとてつもない飢餓感を味わった。

【豊か】、【満足】、彼女を満たすそういうものを、一つとして持っていないことへの飢餓感。

このろうそくを自分の部屋に灯せば、少しでも彼女のようになれるだろうか。

そう、思ってしまった。

ろうそく一本でばかばかしいと思いながら、灰色の自分の部屋に、それを灯す。

「わぁ……」

トモエにとって、何もない部屋。

外見的にはベッドがあって、少しの本があって、入居の時に「これだけは」と、こだわったくせに、その後は物置になってしまった一人掛けのソファがあるだけ。

……そうか、私の家のカーテンはオレンジだったのか。

いつもの白いLEDだと、愛想なく見えたただのカーテン。

ろうそくが生み出す揺らぐ陰影で色が濃くなり、本来の淡く明るい色を思い出させた。

何も入っていない、ただ置いてあるだけの白い花瓶。

一人暮らしの記念に母からプレゼントされたそれは、今まではただの邪魔な陶器だった。

しかし、今はトモエの視界に宝石のように見える。

ろうそくの灯かりが、白を真珠色に変え、火が揺らぐたび、真珠色は角度を変えていく。まるで小さな踊り子のように見るものの目を楽しませる。

「きれいだなぁ……」

心の底から、ため息と一緒に言葉が零れ落ちていく。

ほとんど微動だにしない、ろうそくの炎の先がちらりと揺れる。猫のしっぽみたいな小さな動きは、部屋を【安らぎ】で満たす指揮者の指先だ。

一時間、いや、それ以上の間、トモエは優しい灯かりに見入った。こっくりと首が揺れるのを感じて、自分が眠気に負けたのを自覚する。

「いけない、火の始末はしないと……」

和ろうそくの芯を折って火を消し、トモエは、今まで感じたことのない安らぎの余韻を胸に抱きながら、もぞもぞとベッドに潜った。

***

夢を見た。

あの和ろうそくが、手の中にある燭台で輝いている。私は着たこともない、真っ赤な振袖を着て、裾を捌きながら道を進む。

着物の裾には赤い糸で蓮華の刺繍があるのが見えるが、その先の足元を闇が、ドライアイスの煙みたいにひやりと覆っている。

今、歩いている道は、そんな闇にしっとりと包まれていた。普通なら恐怖で絶対に歩けない道を、柔らかな手元の明かりが、大丈夫。というように照らしてくれる。

あぁ、これで私は大丈夫だ。夢の中で、しっかりと前を見て頷いた。

燭台を握る手に、少しだけ力を籠める。

昼間の彼女のように、私も心を豊かにしてくれる何かと手をつないで歩きたい。

その願いにこたえるように、手元の火は、強く輝いた。

***

天井の、木の模様がうっすらぼやけた視界に入る。夢での暗闇が嘘のように、オレンジ色のカーテンの隙間から、日差しが部屋に差し込んでいる。

布団からもぞもぞと這い出し、オレンジ色のカーテンを開けると、雨が降りそうな綿あめのような雲がもくもくと漂っていた。

それでも、窓を開ける。早朝の風は、初夏であっても、ひんやりしていて気持ちがいい。

「おはようございます」

独り言でも、誰も聞いていなくても、挨拶をしてみよう。

今までトモエは、部屋を寝る場所としか思っていなかった。けれど、ここは自分が生きて戻るべき場所なのだ。それを、思い出したから。

朝食を摂る。いつも通りのシリアルだけど、それにオレンジジュースを加えてみた。

朝にジュースを飲む余裕なんてないよ、と、昨日までの自分なら呆れたに違いない。

が、今朝のトモエは、甘みの中にしっかりとした酸味を感じて、寝ぼけていた頭がすっきりしたのがわかった。

寝ぼけた時に口に入れなければ、自分はずっとこの酸味に気が付かなかっただろう。

和ろうそくに、オレンジジュース。

少しずつ、無理なく、灰色だった生活に何かを付け加えていきたい。その日、トモエは再びふらりと外出し、一冊のノートを買った。

日記にしようと思ったのだ。一日ずつ、何かを変えていった結果を書き込むための。

今までの生活に、一つだけ新しいものを加えたり、いらないものを減らしたり。

別の日に、近所にコーヒーの焙煎所を見つけ、そこで粉を買ってみた。

朝に、香ばしい香りが加わったことを、日記に記す。

ある雨の日に、美しい百合が咲き誇っていた。普段から見ていたのに、水を滴らせる様は【美しい】を超えて【妖艶】に見え、トモエはその百合から目が離せなくなった。

百合を、スマホで撮って現像し、日記に張り付ける。

その写真には、自分の目で見た時の強烈な妖艶さはなくなってしまっていて、今度は写真の勉強がしたいなぁ、と新たな目標を与えてくれた。

LINEで会話していた昔なじみの友人に、そんな日常の変化を告げると、突然、「明日お茶しない?」と誘ってきた。

約束した近所の喫茶店で、友人は一冊の詩集を渡してくる。

「たぶん、今のあんたなら読めるよ」

「そうかな……」

動画とゲームと漫画にかまけていたので、正直、本は苦手だ。その中でも詩集はさらに難易度が高いのではなかろうか。

眉根を寄せてカフェオレを啜るトモエを見て、友人はにかっと笑う。

「読めなくてもいいよ、意味も解らなくていいし。ただ、今のトモエの話を聞いたらさ、この本を読みふける、あんたの姿が想像できちゃったから。あ、ちなみにあたしはそれ、もう読みこんでるから、あげるよ」

「……ありがとう?」

「なぜに疑問形」

「まだ実益がないから」

「そこはまだ変わらないかぁ。ロボット女とかつて言われたトモエさんは」

まじめすぎて、優秀過ぎて、今まで【余白】というものをすべて殺してきた、トモエの昔からのあだ名。

友人の言葉に、ふと気づかされた。そうか、これが【余白】なんだ。

「幸せそうでよかったよ、トモエ。今度ご飯おごってねん」

「そこは割り勘でいきましょ。ごちそうさまです」

自分はしっかりおごられておきながら、平然と次回は割り勘と断言するトモエに、友人はぶぅと頬を膨らませた。

友人の反応に、今までずっと笑いを忘れていたトモエの顔に笑みが浮かんでいたことには、本人だけが気付かない。

その日の日記には、こう書いた。

【詩集をもらう。読まなくてもいいと彼女は言った。本は読むものではないのだろうか。しかし、とりあえずページをめくってみる。……意外に、面白いと、思った。特に、ろうそくの灯だけを頼りに読む本は、とてもきれいだった】

そう、きれい。この言葉を使うことができる余裕がなかったのだ。

何かを美しいと思えることもまた、余裕がない心にはできないことだったのだ。

あぁ……自分は、なんて寂しかったんだろう。

和ろうそくを灯すことが習慣になったトモエは、小さなそれに火をつけながら軽くため息をつく。

これからは、できるだけ、はぐれないようにしよう。

日常の中で、ふわりと心に浮かび上がる小さな喜び。

コーヒーの香ばしい香り、

降り注ぐ朝日に部屋が照らし出される光景、

雨の中で雫を滴らせる花の表情、

美しい言葉から広がる世界。

要らないものだと思った。生きるため、お金を稼ぐための生き方に、その感性は不要と、信じて生きてきた。学生の頃は確かにそうだった。

隣の席の子も、先生も、頭の中に教科書そのものを詰め込むことに精いっぱいで、その在り方に抗うことなんて考えられない。

けど、社会に出て、色々な人と出会い、様々な生き方を知り。

不要としていた、それこそが欲しかったことを、小さな和ろうそくが教えてくれた。

私は、私の道を歩き出したばかり。丁寧な生活はいらない。自分らしい暮らしを手さぐりで探していく。

きっと、ささいなきっかけで出会ったろうそくの灯かりは、そんな彼女の手探りを、優しく照らしてくれるだろう。

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