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#4 創業1年目のビッグチャンス

チャンスは突然に

株式会社豆乃木を創業したての頃だったと思う。
学生時代に、バイトで起業講座の事務をやっていたことをきっかけに、その講座を担当する講師の計らいで、「芋煮会」というイベントに誘われた。

その「芋煮会」は、山形のアルケッチャーノの奥田シェフを中心とした異業種交流の場だったと記憶している。
私はできたばかりの名刺を手に、何人かの方と挨拶を交わした。
今は、異業種交流会などとはまったく無縁だが、その頃は、さまざまな場所に呼んでもらい、ふわふわと出かけたものだった。

芋煮会で名刺を交換させていただいた中に、三越伊勢丹のバイヤーさんがいた。
当時、三越伊勢丹で芽吹きはじめた「エシカルな取り組み」を催事で行いたいと、声を掛けていただいたのだ。
そうして実現したのが、創業1年目、銀座三越の地下で行った2週間の催事だった。
あれから12年が経つが、これから先、銀座三越で、わたしたちの商品が並ぶことがあるだろうか。1年目にして、なんというミラクル。

そこから2〜3年は、銀座三越も含め、いくつかの催事を経験させてもらった。今はなくなってしまった東急百貨店渋谷本店や東横店での催事でも、7日間、朝から夜まで売り場に立ち、よく頑張ったものだ。

一方で、催事期間中、当時住んでいた神奈川県藤沢市から都内へ通うのだが、朝の満員電車に慣れておらず、辛すぎて、すぐにグリーン車のチケットを購入する始末。
相変わらずお金の使い方がよくわかっておらず、ついでに百貨店でおいしいランチまでするものだから、収支のバランスは崩れ、この頃から、経済的にとても厳しい状況になっていった。創業の頃のお金の話も、また改めてここに書くべきだろう。

チャンスを活かそうとしなかった


実店舗を持たずに販売していたので、販路は催事やイベント、そして、ささやかに設置していたオンラインショップのみが、自分のコーヒーを紹介する場所だったが、それも長くは続かなかった。
結局、わたし自身があまり接客に向かないのだ。174センチの身長で、ガタイもよく、どう見ても威圧的である点でも、接客向きでなかった。

催事が終われば、特に振り返ることもせず、せっかく声を掛けていただいた百貨店の方に対しても、その後のアプローチやフォローもできぬまま、なんとなく時間が過ぎていった。
思えば、大した社会人経験のないわたしは、仕事のやり方もよくわからなかったし、何より売上や利益に対する意識は、底辺だった。恐らく期末になってようやく自分の会社の売り上げがいくらかを会計事務所から聞いて、
「あ、そうなんだ」
と思う程度だった。来期はいくらを目指そう、ということもなければ、予算も立てることもなく、ぬるっと新しい期を迎えていた。
決して会社経営をしているとは言い難い状況が、驚くべきことに創業から5〜6年近く続いた。
本当の意味での転機は、新型コロナウイルスによるパンデミックだったかもしれない。

もし今、創業の頃に戻れるなら

何を目的に人と会うのかをしっかり考える

つまり時間とお金の使い方がまるでわかってなかった。

「人と会えば、そこに行けば、何かがあるのではないか。」

そう思って闇雲に出かけていた創業時。
そこで出会った人たちとも、その場のノリや温度で、たくさんの時間を垂れ流していた。

創業したものの、コーヒー一本でやっていく覚悟もなければ、何をして、どこを目指すのかよくわかっていなかった。

そうであれば、その目的や計画がある程度はっきりするまでは、他に生活費を捻出できる副業を持ちながら、ひたすらに事業計画を書き、事業資金を貯めることに専念しても良かった。

または、大学卒業を待たずに、奨学金でなんとか生活ができる大学時代に起業し、学生と起業家の二刀流で、時間も存分に使いながら、たくさんの起業家に出会い、向かうべき方向性を見つけられても良かったかもしれない。

当時は、たくさんの人に会い、人の話を聞き過ぎて、いろいろな感情がぐるぐるしていた。占いを頼ったり、(私には到底不向きな)マルチビジネスに勧誘されたりと、隙だらけだったと思う。
ぶれていたし、誰を信用していいかもわからなかった。

結論

使えるお金はほとんどないのだから、時間の使い方だけはコントロールできる。
そこをどう組み立てるかに、もっと真剣に向き合えばよかった。

「人と会う」は仕事ではない。

とは言ったものの、ふらっと誘われるがまま芋煮会に行ったことで、催事への声掛けもいただき、今もその縁で繋がっている人間関係もなくはない。

つまり、正解なんてない。
自分でこの腐った時間をも、正解にしてあげないといけない。
これが結論。

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