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【学ぼう‼刑法】入門編/総論16/法律科目の答案の書き方(1)/一行問題と事例問題/いろいろな論証表現


第1 はじめに

1 答案の書き方を学ぶ必要性

今回は、いつもとチョット趣を変えて、「法律科目の答案の書き方」というテーマでお話したいと思います。

私の法学部での学生時代を振り返っても「答案の書き方」というものを教えてもらった記憶がありません。

では、どうやって「答案の書き方」を身につけていったかというと、司法試験受験団体で受けた指導であったり、司法試験予備校での答案練習会でした。そういう機会に配られる「優秀答案」などを見て、

「なるほど、答案というのはこんな風に書くのか……」

という具合に答案の書き方を身につけていったのでした。

でも、本来こういう「答案の書き方」なんていうものは、ある程度の勉強が進んだ時点で、きちんと教えてもらったほうがよいものだと思います。

単純な話、勉強は入力で、答案は出力ですが、どういう出力をしたいかということを先に知っておいたほうが、出力に必要な事項を合理的・効率的に入力することができるからです。つまり、

「ここは答案を書くときに使う知識だから、シッカリと押さえておかなければ……」

という見極めができるようになるからです。

2 法律科目の答案の特徴

法律科目の答案は、文章の種類としては「論説」「論文」といった類いのものになると思います。

それは、ある問題に対して、これに対する一定の分析や知識を前提とつつ、自分の意見を説得的に述べるというものです。

そして、こういうタイプの文章は、法律科目の答案だけでなく、社会に出てからも結構書く機会があるものです。

私の小学生・中学生・高校生の時代などは、すでに半世紀近くも前になりますが、そのころの国語の授業を振り返っても、そのような文章の書き方を習った記憶がありません。

いわゆる「作文」「読書感想文」のようなものを書かされたことはありますし、新聞の記事のような事実を伝える「報道文」のようなものを書かされ、「5W1Hを漏らさず書くこと」などと指導されたことは、遠い記憶の中に残っています。けれども、論説文・論文のような文章の書き方を習ったことはついぞありませんでした。

しかし、実際に社会に出てみると、作文や、読書感想文などを書くことを求められる機会など一切なく、報道文を書かされることもほとんどありませんが、逆に、ある問題に対する自分「意見」を文書として提出するという場面は、実は、意外とあるものです。

そして、その際、クオリティの高い文書を作成しようと思えば、単に「問題点」とこれに対する「自分の意見」だけを書いたのでは充分ではなく、問題に対する一定の「分析」をしたうえで、この問題に対する「権威者・有識者の見解」なども紹介し、これを踏まえて自分の意見を述べ、さらには、これに説得力を持たせるために「論証」をする、ということが必要とされます。

これが論説や論文といった文章の基本構造です。

そして、この点は法律科目の答案でもまったく同じです。

ですから、逆に言えば、法律科目の答案が書けるようになれば、だいたい世の中でふつうに求められるような論説文(意見書)なども、ある程度書くことができるようになる、と言えます。

前置きが長くなりましたが、そういうワケで、今回は「法律科目の答案」とはどういうものか、それはどうやって書けばよいのか、ということについての解説です。


第2 一行問題と事例問題

1 法律科目の出題形式

法学部の期末試験などで法律科目の出題がなされる場合、その出題形式には、大別して2つのタイプのものがあります。1つは「一行問題」と呼ばれるもの、もう1つは「事例問題」と呼ばれるものです。

下の2つの出題形式を見てください。

「一行問題」というのは、比喩的な言い方で、「非事例問題」という意味です。必ずしも1行であるとは限りません。問題によっては数行にわっている場合もありますが、事例でない問題は、一般に「一行問題」と呼ばれています。

これは、答案作成者に対して、ある法的な概念やテーマについての説明や意見を求めるものです。

上の出題では「不能犯」という言葉の意味やこれが示している事柄について、それが何なのか、これをめぐってどのような問題があるのか、学説にはどのような議論があるか、などということを説明し、さらにはこれについての答案作成者の意見を述べることが要求されています。

これに対して「事例問題」は、まさに事例を題材にした出題です。法律科目では、現実の裁判に登場するような事件のようなストーリーが、ある程度、簡易化された形で出題されるのが通例です。実際の裁判(判例)に現れた事案を題材として、これを簡略化したり変形したりして作られることもありますし、教員などの創作による場合もあります。

そのうえで、憲法の出題であれば「この場合における憲法上の問題点について論じなさい」というように問われる場合が多く、民法の出題であれば「この場合におけるAとBとの法律関係について論ぜよ」とか「AはBに対して民法上いかなる請求ができるか」いうような感じで問われます。

また、刑法の出題であれば「Cの罪責について論ぜよ」というような感じです。この場合、答案作成者には、Cに犯罪が成立するのかしないのか、成立するとすれば何罪が成立するのか、ということが問われています。

そこで、上に例として挙げた事例問題であれば、最終的に「Cには何らの犯罪も成立しないものと解する」あるいは「Cには~~罪が成立するものと解する」などの、答案作成者の見解が示されることが求められています。このような結論が示されない場合は、点数はかなり低くなります。

ただし、ここからが高校までの試験とは大きく異なるところなのですが、法律科目の答案の場合、必ずしも「結論が合っている/間違っている」ということよって点数が決まるワケではありません。

もちろん、ある結論を採ったことが「明らかな間違い」として点数が引かれるということはあります。

しかし多くの場合は、結論自体は、どちらもよく、その結論へと至った過程、つまり、そのような結論を導くに至った思考過程に点数がつけられます。

まあ、抽象的に説明していても解りづらいと思いますので、この点は、あとで実際の答案例を示しながら解説することにしましょう。

2 一行問題の答案の構成

まず、先に挙げた「不能犯について論ぜよ」という一行問題を題材として、一行問題の答案の基本的な構成について説明しましょう。

不能犯については、すでにこの「入門編」の「総論05」の「第3」で取り上げたところです。

その際は、「不能犯」の具体例として、まず「丑の刻参り」の事例を挙げて説明しました。

丑の刻参りは、人を呪い殺そうとして行われる行為ですが、これは殺人未遂罪にはなりません。これが「不能犯」の典型例です。

「不能犯」の場合は、行為者は、犯罪を実現しようと思って行為を行っていますが、結果は発生しません。そもそも結果の発生する危険性のない行為だからです。そのために行為者は未遂罪にならないとされます。つまり、未遂罪となるか、不能犯となるかの違いは「結果発生の危険があるか否か」という点だと言えます。

しかし、丑の刻参りについては、結果が発生する危険がなく、未遂罪として処罰する必要もないことは明らかですが、いろいろな事例の中には、未遂罪として処罰すべきか、不能犯として不処罰とすべきか、迷うようなものもあります。

例えば、

  • わずかな空気注射で人を殺そうとした事例(空気注射事例)

  • 死体を生きていると誤信して殺そうとした事例(死体事例)

  • ピストルで人を撃ち殺そうとしたが弾丸が入っていなかった事例(空ピストル事例)

などです。

そこで、このような事例の処理をめぐり、学説では、危険性をどう判断すべきかということが議論されています。そして、学説としては

  • 主観説

  • 主観的危険説

  • 抽象的危険説

  • 具体的危険説

  • 客観的危険説

などが主張されています。もっとも、現在、有力に主張されているのは、具体的危険説と客観的危険説の2つです。

さて「不能犯」をめぐっては、以上ような議論があるワケですが、これを前提とすれば「不能犯について論ぜよ」という一行問題についての答案の構成は、概ね次のようなものとなります。

つまり、最初に「不能犯」の意義、不能犯とはどのようなものか、ということについて説明します。

そのうえで、次に、ここでは未遂犯と不能犯との区別が問題となること、その区別の基準は危険性の有無にあること、そのため、危険性判断の方法が問題となること、そして、これをめぐって現在では具体的危険説と客観的危険説とが対立している、ということを説明します。

ここまでは「勉強した知識を披露」する段階です。

そして、ここからが「自分の意見」を述べる段階となります。

つまり、具体的危険説と客観的危険説とでは、いずれを支持するか、ということについて自分の見解を、最終的な「結論」として表明します。

そして、そうした結論に至る過程で、両説のどちらがよいかについて「比較検討」を行います。

この比較検討を経て、最終的に、自分は具体的危険説を支持するのか、客観的危険説を支持するのかという結論を明示して、答案が締め括られます。

なお、この結論としての自分の意見は、どちらかの説でなければならないということではありません。

「総論05」での「不能犯論」の解説でも書きましたが、危険性判断をめぐるこれらの学説は、結局のところ「判断基底(基礎事情)」と「判断基準」との組み合わせで作られているので、それなりの論拠があるのであれば、新たな組み合わせを自説(新説)として主張しても構いません。

説得的に論じられていれば、従来から主張されている説でなくても、よい点数が付くはずです。

3 説得的に論じるとは?

ところで、ここで今「説得的に論じられていれば」と言いましたが、この「説得的に論じる」というのは、どういうことなのでしょうか?

そして、こここそが法律科目の答案の面白いところでもあり、難しいところでもあります。

先ほど、未遂犯と不能犯とを区別するための「危険性判断」をめぐる学説のうち、最終的に、答案作成者が、具体的危険説を支持するのか、客観的危険説を支持するのか(あるいは、その他の説を支持するのか)を明示することが最終的に求められていると説明しました。

この要求に応えるには、最終的に、答案上で

「私は、具体的危険説を支持する」

などと書くことになります。

しかし、これだけでは、自分の意見(自分の支持する説)が明示されたにすぎません。これでは、全然「説得的」ではありません。

では「説得的に論じる」には、どうすればよいのでしょうか?

これは、結局のところ「各説の比較検討をどのように行うか」ということに尽きます。これが上手に行われていれば、説得的となり、そうでなければ説得的とはならない、ということです。

では、この「各説の比較検討」は、具体的にどのように行えばよいのでしょうか?

この答案上での「比較検討」の質を高めるポイントとしては、実質の問題形式の問題とがあります。

まず、誤解のないように強調しておきますが、ここで圧倒的に重要なのは「実質の問題」のほうです。

これは、対立している学説の違いをよく理解し、よく考え、どちらが正しいか、どちらが妥当なのか、ということをよくよく考えるということによって得られる「その学説を支持する理由」です。

これが何よりも大切です。

この理由自体が、その問題の本質を突いたものであれば、これに勝るものはありません。

しかし、答案上では、このような比較検討の過程をどのように表現するかということも、侮れない問題です。これが形式の問題です。

つまり、これは、同じような比較検討であっても、どのように表現すれば、答案作成者の思考過程が読む人に伝わりやすいかというテクニックの問題であり、これが「論証表現」と呼ばれるものです。

そして、この論証表現が上手になされることで、答案の見栄えはずっとよくなると言えます。つまり、これは点数を引き上げるということです。

そして、より重要なことは、このような論証表現には、これまでに多くの人によって培われてきたいくつかパターンがあるということです。

つまり、この論証表現は、知っていれば有利だし、知らなければ不利だというものです。

もちろん、世の中にはとてつもなく文章力のある人がいて、そういう人の手にかかれば、論証表現など知らなくても、読みやすく見栄えのよい答案は、いくらでも作成することができます。しかし、凡人にとってはそうではありません。

そこで、これまでの歴史の中で多くの先人によって培われてきた論証表現を利用したほうが、圧倒的に論証が読み手に伝わりやすくなり(さらに言えば、根拠の薄弱さなどの欠点も適度に誤魔化されて)良い点数に繋がるということになるのです。

ですから、これを利用しないという手はありません。

では、このような論証表現には、どのようなものがあるでしょうか?


第3 いろいろな論証表現

まず、基本的な論証表現の型式を3つ紹介しましょう。それは

  • 両天秤型

  • 起承転結型

  • 唯我独尊型

と私が呼んでいるものです。

これは、私が勝手にそう呼んでいるだけで、これらの論証表現の型は、私が考案したものでもなく、私が公に名付けたものでもありません。これらの論証表現の型は、いつだれに作られたのかも解らず、昔から存在するものです。ただ、名前がないと不便なので、私が勝手にそう名付けているに過ぎません。

では、その1つひとつについてご説明しましょう。

1 両天秤型

これは、非常に素直な型で、テクニックというほどのものでもありません。

まず、①で対立している2つの見解を紹介します。例えば、A説とB説が対立しているのであれば、この2つ説を紹介します。

そのうえで、次に、②で「では、いずれが妥当であろうか?」と述べます。

そして、③で「思うに……」と述べて、A説とB説との比較検討をします。

この③の比較検討では、A説の長所と短所、B説の長所と短所、決め手となる論拠、例えば、どちらかに致命傷となる欠点があればこれを指摘し、どちらかにとても魅力的なポイントがあればこれを指摘する、という感じです。

そして、④で、その結果として「よって、私は~~説を支持する」などとして締め括るというやり方です。

ある論点についてのこのような文章表現は、教科書(基本書)を読んでいると、普通に目に触れると思います。

例えば、私が司法試験受験生だった時代は、刑法では、大塚仁先生、福田平先生が長らく司法試験委員としてとても大きな影響力を持っていた時代ですが、当時私が愛読していた大塚仁先生の教科書では、ほとんど全般にわたって、このような書き方がなされています。

ですから、私も、当初は大塚先生の書き方をまねて「思うに」などと答案に書いていたものでした。

ただ、このような「両天秤型」の論証の場合にやや問題なのは、文章が長くなりがちだという点です。これは、時間の限られた、試験の答案などにおいては不利です。

それと同時に、答案の流れが悪くなりがちだという点もあります。これは

A説→B説→どちらがよいか?→思うに……

という展開にはスピード感が乏しいということです。

しかし、教科書などとは異なって、答案の場合には「できることなら採点者にスピード感を持ってサラリと読んでもらいたい」というところがあります。

そして、できれば、そのスピード感によって小さなミスなどは読み飛ばしてしまってもらいたいというのが答案作成者の偽らざる願望です。

そこで、両天秤型は、平易で素直な表現なのですが、これらの点で試験答案の作成上はやや好まれない傾向にあります。

ただ、論点によっては、この書き方をするのが最も適するという場合もあるので、その見極めが必要です。

特に一行問題の場合は、この論書表現が適するという場合が少なくありません。なぜなら、一行問題の場合は、論点が多くないからです。そこで、この型を使って濃厚にたっぷり展開するほうが点数が伸びると言えます。他の論証表現を使うと、どうしても「端折ったな」「楽をしたな」という印象が強くなるからです。

2 起承転結型

次に紹介する「起承転結型」は、まさに論証表現の「王道」とでも呼ぶに値するものです。

この論証の「確かに、しかし、したがって」というキーワードは、もしかするとどこかで聞いたことがある人もいるでしょう。

この論証は、「両天秤型」が自説と反対説とを平等に扱い、2つを並べて利害得失を比較したのと異なり、反対説を主軸にしつつ、自説へと流して行く、というパターンです。

このパターンでは、例えば、自分の支持する見解がA説であれば、まずB説を紹介します。つまり、①「この点については、~~という説がある」とまずは反対説であるB説を紹介します。

そのうえで、ここが重要なところなのですが、これに続けて、②「確かに」という接続詞で次の文へと繋ぎ、B説のよいところを指摘し、「傾聴に値する」などと一旦B説を褒めます。

そのうえで、③「しかし」と展開し、B説の問題点を指摘し、この問題点ゆえにB説を採ることができないことを示します。

そして最後に、④「したがって」として、自分がA説を支持することを示して完成です。

この論証表現は、おそらく、どこの司法試験予備校に行っても必ず教えられる「王道」の展開です。

もっとも、この「起承転結型」も、万能というワケではありません。このパターンでは展開しにくい論点もあることは事実です。

しかしそれでも、このパターンで乗り切れる論点は、おそらく8割以上でしょう。その意味で、事前に論証表現を用意しておくのであれば、まずはこのパターンでの作成を試みるのが合理的といえます。

なお、このパターンで展開する際、ポイントになるのは、③の反対説の問題点を指摘する部分ではなく、むしろ、反対説のよいところを肯定する②の部分です。

この部分があることによって、答案作成者が、反対説の短所だけを見ているのではなく、長所をもそれなりに評価したうえで、自説に行き着いているのだという、公平さ、冷静さ(つまり、それ故の説得力)を醸し出すことができるからです。

つまり、たとえ「無理やり」にでも、反対説のよいところを指摘する、ということが、この論証表現を使う場合には肝要となります。

3 唯我独尊型

いま紹介した「起承転結型」の対局に位置する論証表現が「唯我独尊型」です。

この論証表現は、ちょうど私が司法試験受験生だったときに、答案の書き方を教えに来てくれた弁護士(受験中いくつかの司法試験予備校の答案練習会で軒並み優秀答案を出していた有名人)が教えてくれた方法です。

この方法の特徴は「起承転結型」が反対説を軸にして論証を展開したのに対し、自説を軸にして論証を展開する、という点です。

そのため、この論証で準備しておく限り、他説の知識が必要ではなく、他説に対して勉強しておく必要がないのです。この点が「ものぐさ」な受験生にとっては、とてもありがたい論証表現だとも言えます。

その内容は以下のとおりです。

この論証表現は、反対説に対してまったく触れません。

最初に、①「この点、私は……と考える」として、自説を述べるところから始めます。

そして、次に②として、その自説の論拠を端的に述べます。

そのうえで、③として、自説に対する他説からの批判を書きます。つまり、自説に対して、こういう批判があることは充分承知しております、ということを述べます。

そして、最後に④として、③で述べた自説に対する批判に対して、反論し「この批判はあたらない」として、自説の正当性を再度基礎づけ、論証を終えます。

この論証表現を教えてくれた先生が言っていたのは、この論証のポイントは、③と④にある、ということです。

この論証では、まず、②で自説の理由を述べますが、これだけでは、弱いのです。そこで、これを補強するのですが、その際、③であえて自説に対する批判(自説の欠点の指摘)について紹介し、④でこれに反論することで、この論証では、説得力を増強しているのです。

この論証表現で注意しなければならない点は2つあります。

第1は、③での「自説に対する批判」は、キチンと厳しい批判、自説の最も弱い点、苦しい点についての指摘をすべきだということです。ここで、批判の手を緩めて、あえて自説から反論しやすい批判を挙げ、④でそれに反論したとしても、そんな小賢しい方法は、採点者にはお見通しです。

ですから、そんなことをしても、何ら自説に対する補強にはならないし、悪くすれば「自説に対する理解が不充分」であると評価され、減点されてしまうかもしれません。

ですから、③では、自説にとって最も厳しい批判を挙げるべきです。そして、それを打ち返してこその説得力なのです。

第2は、④では、あくまで自説に対する補強をすべきであって、他説に対する批判をしてはいけないという点です。

人は、他人から自分の非を指摘されたとき、

「そんなこと言ったって、お前だって~~じゃないか!」

という反論をしがちです。つまり、相手に対する批判によって反論する、という戦法です。

しかし、ここでは、これはいけません。正直言って、こんなことをしても見苦しいだけで、何ら自説の説得力を増すことにはなりません。

この「唯我独尊型」の論証は、自説だけについて展開し、他説については一切触れない、というのがその本領です。それでこそ「潔い」というワケです。それにもかかわらず、批判された途端に、自説のことは棚上げして他説の短所について言いつのるというのは、カッコ悪いにもほどがあります。

ですから、ここはグッと堪えて、自説の防御、自説の補強に徹するのが良策なのです。

4 寄らば大樹型

論証表現の基本型は、これまでに紹介した「両天秤型」「起承転結型」「唯我独尊型」の3つなのですが、ここで「唯我独尊型」の亜種とでも言うべき「寄らば大樹型」についてご紹介しましょう。

これは、次のようなものです。

比較してみるとすぐに判ると思いますが、両者の違いは「唯我独尊型」の場合は「私は……」と展開しているのに対し、「寄らば大樹型」の場合は「判例は……」と展開している点です。

つまり「寄らば大樹型」の論証では、「私」ではなく「判例」が主軸になっているのです。

法解釈学において「判例」はとても重要です。法解釈学の勉強をするうえでは、各論点において、判例がある場合には、判例の見解はどういうものなのかということを押さえるべきことは常識です。

そこで、賢い受験生の中には「どうせ判例を勉強しなければならないなら、判例の立場を自説にしてしまえ」というのが、一定数います。そういう人は、可能な限りこの「寄らば大樹型」で答案を書いてしまおうとします。

ところで、法律学の初学者が犯してしまう間違いの1つに、法律学の答案は判例の立場で書くものだという勘違いがあります。

このような勘違いをしている人は、答案を書くときに

「この点、判例は~~としている。したがって、結論は~~である」

というような答案を書いてしまいます。

しかし、これは大きな勘違いです。このように書いてしまう人は、そもそも「法解釈学の何たるかが解っていない」と判断され、点数は極めて低いものとされてしまいます。

では、このような答案は、何が間違っているのでしょうか?

これは「そもそも、法解釈学というのが、何を目指している学問なのか?」ということが理解できていないのです。

法解釈学とは、あるべき法解釈について論じ、これを通じて、実際の裁判における裁判官の法解釈権の行使に対して影響を与えることを目的とし、そうすることで社会に貢献する学問です。

つまり、法解釈学は、実際の裁判で、判例はこの法律のこの条文をこう解釈しているなどということを調査する学問ではありません。そんなことは当然の前提としたうえで、その法解釈が正しいのか正しくないのかということを論じる学問なのです。

つまり、判例の採用している法解釈は、司法政策として望ましい妥当な法解釈なのか、そうではないのか、ということを議論し、場合によっては、判例の採用している法解釈を批判し、これを変更させるということを目的としている学問なのです。

ですから、法律科目(法解釈学)の試験において問われているのは

「この問題について、あなたが正しいと考える法解釈はどのようなものか?」

ということであって、

「この問題について、判例がどのような法解釈を採っているかあなたは知っているか?」

ということではありません。

ですから、法律科目の答案において、最終的に

「判例は、こう言っている」

ということを解答したとしたら、採点者としては

「で?」

となるワケで、このような解答を結論とした答案に対しては「法解釈学の何たるかを解っていない」として、よい点数は付かない、ということになります。

さて、話を元に戻せば「寄らば大樹型」の答案というのは、このような「法解釈学の何たるかを解っていない」というものではありません。

ただ「自分の見解は、判例と同じである」ということを表明している答案です。

もちろん、自分の考え方が判例の見解と同じであるということは、あり得ることです。特に民法などの場合は、そういうことも少なくないでそう。そして、そういう場合に「寄らば大樹型」の論証表現を使うのは、よいのです。ごく自然のことと言えます。

しかし、可能な限り「寄らば大樹型」の答案で行こうと決めている、という人は「どうせ試験なんだから、自説なんかどうだってよいので、自分の見解は判例と同じ、ということにしてしまえ」という人です。つまり、こういう人は、学説の選択においてそこに自分というものがありません。試験のためなら自説なんか何でもよい、というワケです。

そのため、信念がない。悪魔に魂を売っている。そんな感じがします。

実際「試験なんだから受かればよい」というのは、受験生の本音です。しかしその一方で、それでも法律を学んだのであれば、幾分かは信念のようなものを持っていてほしいという期待もあります。ですから、ここまで割り切られると「なんだかなぁ~」という気がしてしまうのです。

……でも、まあ、悪口はそのくらいにして「寄らば大樹型」による答案の形について説明することにしましょう。

この論証表現では、まず、①として「この点、判例は~~と解している」と判例の立場を紹介します。

そのうえで、②として「私は、判例を支持する」として、自分の考え方が判例と同じであることを示します。いわば、スネ夫的・コバンザメ的対応です。

問題はここからです。ここで終わってしまっては、本当に判例にすり寄っているだけの、スネ夫的・コバンザメ的なニオイがプンプンしてしまいますので、③④の展開が重要になってきます。

③では、あえて、このような判例の立場に対する批判を書きます。これによって、判例の立場に対して批判的な学説があるということも知っているよ、ということをアピールします。

そのうえで、④で、判例に対する補強をします。つまり、判例に対する学説からの批判に対して、自分なりの援護射撃を展開します。そうすることによって、単に判例だからすり寄っているのではなく「しっかりとした自分なりの考え方に従って、あえて判例を支持しているのだ」ということをアピールする、というワケです。

これが「寄らば大樹型」の作戦です。


第4 一行問題の答案例

では、ここで「不能犯について論ぜよ」という一行問題についての答案例を見てみましょう。

いかがでしょうか?

論証表現としては「両天秤型」で書いています。

これは、この出題が一行問題であることとも関係しています。一行問題の場合は、たっぷり展開しなければならいので、最も単純な「両天秤型」が適しているからです。

この点は、1つの問題の中でいくつも論点について展開しなければならない事例問題の場合には状況が変わる可能性があります。

この答案では、最後に、独自説を主張しています。このように独自説を主張する場合には、それまでの段階で、一般的な説については充分に紹介していることが前提となります。いきなり独自説だけを書いたのでは、点数は低くなります。一般的な学説の対立を知らないのか、と思われてしまうからです。

そこで、まずは、一般的な学説の対立などについてはすべて知っているよ、ということを充分に示したうえで、最後にチョロッと書く程度に展開する、というのが、独自説を主張する場合のコツです。

この程度であれば、上手くすれば加点になるかも、というところです。


第5 事例問題の書き方

さて、次は、冒頭に示した2つの出題形式のうち、事例問題のほうについて書き方を解説しましょう。

これも、一行問題と同じく「不能犯」をテーマとした問題ですが、事例形式で、いわゆる「死体事例」と呼ばれている有名なものです。

1 事例をブロックに分ける

このひょうな事例問題の場合は、まずは、事例の中身を、犯罪の成立しそうないくつかの事実(ブロック)に分けることから始めます。

上の図では「事実1」「事実2」「事実3」と書かれているところです。

まずは、事例をこのようなブロックに分けたうえで、その1つひとつについて順々に論じてゆく、というのが、最も基本的なアプローチです。

もっとも、複雑な事例になると、このような単純なアプローチではうまくいかない場合も出てきます。

2 何罪が成立しそうか見当をつける

次に「ブロック」に分けた事実について、1つずつ取り上げながら「何罪が成立しそうか」という見当をつけます。

例えば、上の図では「事実1」について、まず「X罪は成立するか?」と当たりをつけたので、その検討をします。

3 法的三段論法によって検討する

その際の検討の方法は「X罪の成立要件」を挙げ、これに対して「事実1」を当てはめ、「成立」または「不成立」という結論を導くというものです。

これは、簡単に言えば、法的三段論法です。

法的三段論法による検討の各段階は、

  1. 問題提起

  2. 規範定立(大前提)

  3. あてはめ(小前提)

  4. 結  論(結論)

と呼ばれます。2~4の部分が法的三段論法です。

なお、刑法の場合は、この三段論法自体が、構成要件該当性、違法性、有責性という三段階に分けて行われる必要があります。

また、各段階の内部でも、さらに細かく法的三段論法による判断が繰り返し行われるのがふつうです。

このような検討の途中で、法解釈をめぐって学説の対立している論点に直面した場合は、その時点で、一行問題の場合と同様に「各説を紹介し、自説を述べて論証する」ということが必要となります。つまり、すでに見た一行問題の答案の中でした「論証表現」を、事案処理の判断の中で同じように展開する、ということになります。

4 次の候補となる犯罪について検討する

こうして検討した結果、最初に当たりをつけた犯罪が成立しないという場合には、次の候補となる犯罪について成否を検討します。上の図で言えば「Y罪は成立するか?」と検討を進めます。

そして、それも成立しなければ、次の候補、また次の候補と検討し、候補がなくなれば、結局「事実1」については犯罪は成立しない、と結論づけます。

5 事実について順々に犯罪の成立を検討する

このように「事実1」についての判断が終わったら、こんどは「事実2」について判断を行い、これが終わったら「事実3」について判断を行うというように、切り分けた事実について、順次判断を行ってゆきます。

6 罪数処理

こうして、切り分けたすべてのブロック(事実)についての判断が終わり、その結果、複数の犯罪が成立しそうな場合には、最後に「罪数処理」をします。

これは、現時点では勉強が進んでおらずまだ早いのですが、複数の犯罪が成立しそうに見えても、1罪しか成立しないという場合もありますし、複数の犯罪が成立する場合でも、犯罪同士の関係にはいろいろなものがあります。最後にそうした処理をするのが「罪数処理」です。

そして、この罪数処理をして、事例問題の答案は締め括りとなります。

なお、この罪数処理は結構面倒なので、学部の試験などでは、この罪数処理をしなくても、点数が引かれることはないと思います。


第6 事例問題の答案例


第7 おわりに

1 細別符号

今回は「法律科目の答案の書き方」について、基礎的な解説をしました。

なお、途中では触れませんでしたが、答案例を見ていただいて気づいたと思いますが、答案では「細別符号」を付けたり、「見出し」を付けたりすることが一般的です。

法律学の論文などを見ると「細別符号」はその著者の好みによってさまざまなものが使われ、「Ⅰ」や「a」などというものが使われることもありますが、答案で使うのは、

第1 ・・・
 1 ・・・
 (1)・・・
   ア ・・・
   (ア)・・・

というものです。

この細別符号の種類・順序は、インデント処理をも含めて「公用文作成の考え方」に根拠をもつものです。判決文などもこのルールに従っているために、司法試験の答案作成などでも、通常はこのルールに従っています。

2 その他の論証表現

また、今回は、基本的な論証表現として「両天秤型」「起承転結型」「唯我独尊型」「寄らば大樹型」をご紹介しましたが、このほかにも「そもそも型」「七転八倒型」「ネズミの嫁入り型」というもあります(いずれも私が勝手に命名したもの)。

これらは、ここでご紹介した4つほどは応用範囲が広くありませんが、知っていれば便利なものでもあります。

私は、かつて書いた本の中で、これらについても紹介したのですが、すでに絶版になっており、中古品でも手に入りにくいかもしれません。まあ、興味のある方は探してみてください。




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