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女性優位の職場で「お局さま」がのさばるのは管理職がだらしないからだ ⑩

 やっとみつけた新人歯科助手に薄給を強い、それをわたしの意思として讒言する──思えばオーナーとも打ち解けなかったのは、お局の二枚舌が介在していたからだと思います。
 しかし、お局オバQが、如何にして場末の診療所を支配していったか、そしてオーナーを如何にして操っていたかがわかったのは、わたしが退職してから何カ月もあとのことだったのです。
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最も効果的な復讐

 オバQは私が遭遇した3人目のお局。狡猾な──いや、小汚い立ち居振る舞いの全てに腹が立っていたのは勿論ですが、以前のお局にしたように罵声や態度で応じはしませんでした。
『センセ、わかった? ここでアタシに逆らったら仕事なんかできないんよ』
と恫喝された日も。
 既に腹にすえかねていましたから、いかにして復讐してやろうかとは画策しておりました。ハンムラビ法典に倣って目には目を、歯には歯をでは犯罪になりかねない。だからと言って、オーナーにチクったところで、彼女はオバQの操り人形ですから、まったく効果がないどころか返り討ちに遇うかもしれませんでした。第一のお局にしたように、プライドという名の大木を根元から伐り倒すほどの悪罵も思いつきません。
 どうやって復讐してやろうか、と思案していたこの頃、職場が近かった家内と一緒に帰宅しておりました。帰宅と言っても、婚約中だった家内の実家へです。天涯孤独も同然に帰郷していた私は、結婚前から家内の実家に転がり込んでおりました。わかりやすくは、マスオさんのような待遇ですね。
 

家内が支えてくれたお陰で、怖いものはなかった

 家内をクルマに乗せ、中心街から郊外へ向かうバイパスまでにはいくつものゴー・ストップにつかまります。赤信号で停まるたびに私が、ため息をつきながら押し黙っていると、
「どうしたの? ため息ばっかりついてさ」
 助手席からの問いかけに、わたしは洗いざらい胸のうちをぶちけました。すると長い沈黙を挟んで、
「辞めちゃえばいいじゃん。苦しむだけバカだよ。わたしだったらそうするな」
 抑揚はありませんでしたが、言葉尻がかすかに震えていました。夕暮れ時です。対向車のヘッドライトがなめていくたびに、家内の顔に光る筋が見えました。彼女も、わたしの異変に気づき、そして悩みを共有してくれていたのでした。
「そうだな、辞めよう、あんな診療所」
 彼女はすすり上げながら無言で頷きました。

 結婚資金を蓄えるまでは今の診療所で我慢するつもりでいましたけれど、彼女の涙で決心しました。早急に次の就職先を見つける必要に迫られましたけれど、なんとかなる、ひとりではダメかもしれないが、二人でならなんとかなる──根拠もなくそう思えました。
 この日のバイパスは帰宅渋滞もなく、追い越し車線で流れに乗ると、ユーミンの『中央フリーウェイ』に出てくるような景色が目の前に広がりました。行く手には残照を浴びた山脈が遠く横たわっています。そこに一直線に向かうかのような道路は、まさに希望という空へとつづく滑走路のようでした。
──そうか、あの貧民街の診療所にはもはや、勤務医が現れないかもしれない。俺が辞めるのは、Q太郎の居場所を土台から崩すこと。これは最高の復讐なんだ──
 ステアリングを握る手に力を込めながら、そう胸のうちにうそぶいておりました。

金の卵を生むガチョウ

 翌朝、いつもより早めに出勤した私は、二人のDAがやってくる前に、オーナーに退職の意向を告げました。彼女は長いため息に続けて、
「残念ね。先生は、ご近所に評判よかったから……」
 意外な言葉を吐き出しました。
 それからの数分間の会話で、オーナーはQ太郎が言うほど、わたしに悪感情を持っていなかったこと。そして私も、Q太郎が言うほどオーナーが悪い人ではないことに気づきました。すべてはQ太郎の讒言にコントロールされていたのです。あろうことか、わたし自身までも。
「新しく勤めてくれる先生が見つかるか心配」
 オーナーの眉間に深い憂慮のしわが寄っているのを見て、わたしは少し彼女が気の毒になってきました。息子が首都圏の私立歯科大を卒業するまであと1年、開業医として使い物になるまでの数年は勤務医でつながなければならなかったのでしょう。
 治療に区切りがつき次第、即座に退職するつもりでおりましが、私は退職予定日を2カ月後の月末にすると告げました。家内との挙式の前日です。女性が結婚を機に職を辞す寿退職はよくあることでしょうが、あろうことか新郎が寿退職するということになりました。

 やがて出勤してきたスタッフに、オーナーが私が職を辞す意向であることを告げると、Q太郎は真っ青な顔で、悪趣味な色の紅を引いた分厚い唇を震わせなが
「奥様、新しい先生なんて見つかるんですか? これから、この医院をどうするんですか?」
 とオーナーにすがったかと思うと、わたしに向き直り、
「ね、センセ、なんで辞めちゃうの? 本気なん? 考え直してよ、ねえ……」
 懇願するQ太郎を睥睨して、わたしは薄い笑顔を横に振ったのは言うまでもありませんでした。何故ならば復讐のクライマックスシーンに、Q太郎が周章狼狽する様を想定していましたので。哀れだとも可哀相だとも思いませんでした。まるで空条承太郎が、スタープラチナを叩き込まれた瀕死のDIOを眺めるかのような気分で。
 Q太郎にはとって私は、イソップ寓話にある金の卵を生むガチョウだったのでしょう。若い勤務医を意のままに操り、歯科助手としては破格な報酬を得続けられるだろう、そう値踏みしていたはずです。でなければ、新人DAの給与にあれほど強行に口出しする理由が考えられません。つまり新人が本来受け取るべきだった額面はオバQの懐に入っていたと想像できます。
 なのに、さらなる譲歩を引き出さんがために恫喝し、耐えられずに金の卵を生むガチョウは彼女の前から姿を消すと言う最悪のしっぺ返しを浴びることになったわけです。

 それでも退職予定までは2カ月ありました。オーナーはあちこちに手を伸ばして、勤務医を探していたようです。しかし、今までの悪評が私やI先生から伝わっていたせいか、出身大学の先生からは相手にされず、しかたなく他の大学の医局から、破格な条件と引き換えに勤務医を派遣してもらうことが決まりました。
 やがて引き継ぎのためにやってきたのは、性格が悪いことで有名な准教授でした。教授や医局員とうまくいかないので体のいい厄介払い、左遷人事だったはずです。
 私も彼には、技術レベルを散々にこき下ろされました。保険中心の開業医なら普遍的な寒天アルジネート連合印象を否定され、ゲイツドリルとダイヤモンドファイルを使わなかったことを鼻で笑われたりとか。
 治療コストを考慮する必要がない大学附属病院でのシステムを持ち込み、わずか2年あまりのキャリアでしかないわたしは、「どうだ、おそれいったか」とばかりに見下されたわけですが、まったく平気でした。引継ぎの日、Q太郎の狼狽ぶりを見物するのが楽しくて怒るひまもなかった。
 わたしはスタッフにキツいことはまず言いませんでした。それを今、准教授にアゴでこき使われ、怒鳴り散らされるオバQは、一日中「スミマセン」を繰り返し、新人さんはトイレにこもったっきり出てこない。
 彼女らは自らの居場所を、自らの行いによって破壊した──因果応報、自業自得──そう胸の内で呟きながら、准教授への引き継ぎを終えたのでした。

その後

 退職してしばらくは、家内に養ってもらっていましたが、ありがたいことに複数の業者から就職の斡旋があり、女のヒモのような有り余る時間を利用して次の就職先を吟味することができ、条件に叶う郊外のクリニックに職を得ました。
 前の職場で診ていた患者が数人、私なんぞを追いかけて新しい職場ヘ治療に来ておりましたが、うち、義歯の患者がある日、ポツリと漏らします。
『あのYという受付(Q太郎)は酷い人ですね』
と。
 聞けば、窓口で支払う一部負担金を数百円から千円ほど水増しして徴収されていたそうでした。

お局さまどころか、小汚い犯罪者だった

 その患者は保険者から送られてきた医療費通知を携えて怒鳴り込んだそうですが、最初はばっくれていたQ太郎も複数人からの問い合わせを受けて、とうとうパクった水増し分を返金して自ら辞めざるをえなくなったとのことでした。
 材料商の話では、県の保健課からの調査も入ったようですが、あの界隈ではちょっとした騒動になったようです。
 ざまあ、とあざ笑っていた私でしたが、やがて恐ろしい推理に辿り着きました。窓口負担を水増しする不正行為は、保険医停止を食らった初代の先生と同じやり口です。以前は患者の元へ医療費通知がなされなかったために発覚し難かったわけですが、今般Q太郎はそれを知らずに同じ不正をはたらいた──待てよ?──以前は発覚し難かった──だったらなぜ、初代先生の不正は発覚したのか────
 状況証拠からして、当時から窓口現金を扱ってきたQ太郎が行政に密告したに違いありませんでした。初代との間に腹に据えかねる何かがあって、嫌がらせのつもりで通報しただろうことは想像に難くありません。
 あとに残されたオーナーも何か弱みを握られていたのだと思います。だからQ太郎が自ら去ったのは、彼女にとっても福音だったはずです。
 Q太郎は私が去った後、いや、もしかして私が勤務していた頃から初代に倣って不正に手を染めていたのでしょう。患者の元へ医療費通知が送られているとも知らずに。お局さまに共通する愚かさ──自らの行いが自分の居場所を破壊していることに気づかない。Q太郎はその最たる存在だったのです。
 次回からは最後のお局さまとのエピソード。乞うご期待!
つづく


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