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女性優位の職場で「お局さま」がのさばるのは管理職がだらしないからだ⑨

 歯科助手を募集するにあたり、オーナーが求人票に掲げた基本給は、バブル景気の真っ只中としては非常識ともいえる薄給。これでは永久に求職者は現れまい、とオーナーに直訴するも、この壊滅的な支給額はなんと、Q太郎の意を酌んだ額だったのでした。
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根っからの悪人との戦い

 最初に書いてしまいますが、今までに出会った人のうちで、Q太郎以上の悪人をわたしは知りません。無論、ひどい目に遇わされた人物は、二人目のお局、N美はじめ両手に余るほどおります。幸い、Q太郎には大きな実害を被ることはありませんでしたが、それは被害が生じる前に私が対策を取れたが故にほかなりません。この頃には、お局たちとの戦い方を心得てきたからなのだと思います。
 そして判断を誤らなかったのは、根無し草のように生きてきた私の目の前に、奇跡的なタイミングで現れた家内(当時は婚約者)の心の支えがあったればこそでした。

歯科助手を採用することはできたのだが

 わたしの直訴も虚しく、ハローワークの求人票はついに撤回されることはありませんでした。それでも知人のツテで、この春高校を卒業した女の子が就職してくれることになりました。ずぶの素人ですが、そんなことを言っていられるわけもなく、面接もなしに即採用となりました。
 やってきた子は、県境の田舎町にある高校を卒業したばかりの女の子。美人というほどでもないけれど、目がクリッとした感じのいかにもフレッシュマンという雰囲気をまとっていました。山奥に生まれ育ち、同じ町内の温泉宿に仲居として就職したのだけれど、若い女性にありがちな都会への憧れを抱いての転職でした。
 嬉しかったのはもちろんですが、一抹の不安もありました。都市部での生活はお金を使えてこそ楽しいはず。ましてや実家を離れ、仮住まいでの一人暮らしはコストが余計にかかる。わたしの頭のなかでは、14万という数字が逆回転するパチスロのように減じていき、自由に使えるお金がいくらになるのか、ひどく心配になったのでした。

なんとか見つかった助手は純朴を絵に描いたような女性でした

新人さんがやってきた!

 前述のとおり、求人票に記載の基本給はびた一文増額されることはありませんでした。そこでわたしは、Q太郎が退勤した頃合いを見計らって、オーナーの居室のドアをノックします。
「奥様、とても言いにくいんですが、今どきの高校を卒業したての女性が14万では満足しないと思うんですよ。ですから最初のうちは試用期間ということであの額でもいいですけど、2カ月くらいして仕事に慣れたら、せめて17万にしてあげられませんか?」
 わたしの提案に、オーナーはテーブルに目を落としていました。時間にして数十秒だったはずですが、磨かれたテーブルに映る彼女の眉根に寄せられたしわを見ているうちに、途方もなく長い時間に感じたのを覚えています。
 やがてオーナーが顔をきっぱりと上げ、
「そうですね。Yさん(Q太郎)には、わたしの方から話しておきます。だけど、この話、先生のたっての意向だってことにしていただけませんか?」
 と懇願します。
 この診療所のオーナーはあなたであり、すべての決定権は、あなたにあるのではないのですか?
 喉から出かかった言葉を飲み込んで、その日は辞去しましたが、翌日に新人助手を迎えるQ太郎の微笑みが、いっそうどす黒い含みを秘めたものに思えるようになりました。

 やってきたのは、本当になにも知らない子でした。とおりいっぺんの挨拶はできるものの、患者をチェアに誘導したり、お大事にどうぞと声をかけることもできないくらい。最初はバキュームを持つ手も満足ではありませんでしたが、それでも私には十分でした。彼女はスピードは遅いものの教えたら教えただけ吸収していきます。もちろん失敗もありました。励まし、慰め、冗談で笑わせ──まるで地面を割って顔をのぞかせた弱々しいスプラウトであるかのように、彼女を歯科助手として育てていくことに喜びを感じるようになっていきました。
 しかし、それは同時にQ太郎を必要としなくなることを意味します。いや、むしろそうなることを深層心理で望んでいたのかもしれません。
 事務的なことを除いて、あまり相手にされなくなったQ太郎の分厚い唇からは、次第に尖った言葉が放たれるようになっていきましたが、浴びせられる嫌味も冷笑でスルー。願わくば、このままQ太郎がへそを曲げて辞めてくれればいいとさえ思っていたのです。

 やはり、若い女性にとって14万円では都市部での一人暮らしはキツい。試用期間が満了するまで、できる限り新人さんサポートしてあげたくなりました。それほど、彼女の就職が嬉しかったのです。
 私は頻繁に新人さんを食事に誘いました。最初のうちは下心を疑われたのですが、行き先が近所の町中華がほとんどでしたし、彼女は未成年、私は自動車通勤でしたからアルコールの類は一切なし。たまには友人や家内を交えてカラオケボックスへも行きました。もちろん新人さんのぶんは私のポケットマネーで賄いました。時には家内がやきもちを焼くほどの大盤振る舞いだったようです。言い方はよくないですけれど、その甲斐あって新人さんはすっかりわたしに懐き、仕事も順調に覚えていきました。
 そして試用期間の満了を迎えます。

毎夜のように新人助手にご馳走した

やはりゼニの破壊力には敵わない

 診療所には月に一回、経理事務所の方が訪れていました。私は経理担当の方から、前月の自費売上を元に給与支給額の確認を求められるのですが、勤務して半年を経たこの日、いつもと様子が異なっておりました。オーナーの隣に、どういうわけかQ太郎が座っていたのです。
 嫌な予感がしました。私のインセンティブが丸裸になったのは勿論ですが、この日は試用期間を満了した新人 DAが正式採用となるはずだったからです。
 オーナーは私の目を見ずに、蚊の泣くような声で切り出しました。
「新人さんのお給料ですが、手取りで15万ほどにしたいと思います」
 わたしには経営権はありませんから、そう強くは反駁できません。しかし、試用期間満了と同時に、せめて基本給17万で、という口約束は完全に反故にされたことになります。仮に、なにやかにや引かれて手取りで15万になったとしても、雇用保険や厚生年金が加えられているのならまだしも、源泉した結果で15万とは、と全身から力が抜けていく思いでした。
「約束が違う…」
 そう言いかけてQ太郎に遮られました。
「最初から給料が高いより、半期ごとに昇給していったほうが励みなるよね」
 新人の給与を低く抑えたのは、オバハンの恣意だったに違いありません。さらに、オーナーがテーブルに滑らせてきた雇用契約書に記された、新人さんの自署を見つめながら、今後の診療にどう響くのだろうかと不安な気持ちが沈殿してきたのです。

 この頃には既に、Q太郎は完全に必要なくなっていました。せいぜい馴染みの患者と世間話をしながら予約を入れるくらいが彼女の仕事。たまにリン酸亜鉛セメントの練和や、舌圧が強い患者のバキュームでマウントをとって見せるので精一杯。仲良く仕事をしている私たちを、背後から忌ま忌ましげに見つめていることも新人さんの目を通して知っていました。

 しかし、本採用になった最初の給料日に異変が起こります。
 茶封筒から給与明細を取り出した新人さんが、ワッとばかりに両手で顔を覆ってしゃがみ込みます。彼女の指の隙間から漏れてきた言葉が、
「わたし、このお給料じゃ暮らしていけない」
 もっともだと思いましたが、わたしは傍らに呆然と立ち尽くしているしかできませんでした。

 翌日から、歯科助手二人との距離が開いていくのがわかりました。精神的にはもちろん、時間的、空間的にも。患者がいない時に、私が診察室にいれば彼女らは待合室でテレビを観ている、私が待合室で新聞を読みながらくつろいでいると、彼女らは診察室でコーヒーを飲むといった具合に。
 顕著だったのは、指示に復唱や応答がまったくなくなったこと。笑顔なんて望むべくもなく、仏頂面のまま頷きもせず、ただ淡々と手を動かします。
 これにはまいりました。Q太郎だけならともかくも、新人DAまでもが反抗的な態度を取る──ある日の終業後、私は退勤する彼女の進路に立ちふさがり、問い詰めました。すると、
「わたしを安月給でこきつかうようオーナーに言ったのは先生なんですよね。どうせ私なんかなんの資格もないバカですけど、ひどいですよ。せいぜい彼女とお幸せに!」
 そう言って半身をぶつけるようにして走り去っていきました。
 その翌朝、待合室で朝刊に目を通していると、Q太郎が下卑た笑みを浮かべて、次のように言いました。
「センセ、わかった? ここでアタシに逆らったら仕事なんかできないんよ」
 その勝ち誇った眼差しを見上げながら、わたしは決心していました。

つづく

https://note.com/sugiuraniki/n/n88fbf33aec1f

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