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私が歯医者を辞めたい理由①

 歯医者を辞めたい。
 最初にそう願ったのは、ライセンスを取って二年目の夏だった。そのように思い至るまでには、様々な要因が重なっていたのだが、決定的だったのが医療事故だった。今にして思えば、防ぐことは容易だったし、当時の自分を振り返って、
なんと愚かな!
としか思えない。しかし、当時は必死だったし、それがベストの選択で、その結末が不幸であったわけであるが、どう転んでも他に帰着点はなかったように思うし、その時の絶望は貴重な経験として、今でも私の内側で警鐘を鳴らし続けている。
 他にも、あと先考えず衝動的に歯医者を辞めたくなったエピソードには枚挙に暇が無い。
 スタッフとのいさかい、中間管理職としての勤務医のジレンマ、理不尽な医療行政、借金苦、凋落の一途を辿る一方の日本経済──これらの問題に直面した歯科医としての経験を当ブログでは語っていきたいのだが、その歯医者を辞めたい動機の最たるものとしてまず、問題のある患者との軋轢、いわゆるモンスター・ペィシェントとのトラブルははずせないだろう。X(旧Twitter)のタイムラインに日々流れる歯科医の愚痴のうちで、モンスター・ペィシェント(以下、モンペと呼称)にまつわるものが占める割合を見ればお分かりになると思う。
 たとえ100人の気持ち良い患者が来院したとしても、たったひとりのモンペのせいで日常の診療は地獄に叩き込まれるのだから。
 それではまず、私が遭遇した最凶のモンペとのエピソードを語ってみたいと思う。これほどひどい目にあった歯科医は希有であろう。私の経験とアナリシスがモンペに苦しむ全ての医療従事者の一助になれば幸いこの上ない。

①最凶最悪のモンペがやって来た

 

最凶最悪のモンペは最初こんな顔はしていなかった

目つきの悪い飛び込み患者

 もはや、アイツのことを“患者”と表記するのも心が許せない、それほどのシビアケースである。
 予約どおり患者が来院し、予定通りの治療をこなしていた平凡な夏のある日、そいつはいきなりやって来た。患者に説明をしている私の背後に、受付係がさも困った風の表情を浮かべて突っ立っている。彼女が自分の判断では対処しかねているのは、その表情と背後を気にする目の動きで察することができた。
「先生、どうしましょう。予約制だからと言ったんですが、どうしても、取れた銀歯をつけろってきかないんです……」
 彼女の動揺する視線の先には、受付カウンターから身を乗り出すように、目つきの鋭い中年の男が肩肘突いてこちらをのぞいている。
 嫌な予感がした。
 ウチは予約制だから、が通用しないのは“この手“の輩の常識───小学生から高齢者に至るまでスマホが普及している時代、電話やホームページの問い合わせフォームで予約するよう促し、看板にも完全予約制をうたっている。しかも馴染みの患者ならまだしも、明らかに初見。そんな初対面から常識外れの輩が、こちらの説得に応じるわけもない。
「で、なにが取れたと言ってるの?」
と受付に問えば、
「インレーみたいです」
とのこと。予約患者には申し訳ないが、狼藉者とおさらばできるのなら、と割り切ってダツリ再セットすることにした。それも再セットすべきではない問題があっても、見なかったことにするつもりで。

初回は意外な反応だった

 患者情報の閲覧が認められている歯科開業医なら、初見患者の個人情報から、ある程度の人品骨柄を把握するのはルーチン的に行っているとは思う。
 ましてや、割り込んできた患者。敵を知らずば対処のしようがない。というわけで、特徴のある読みづらい字で書かれた問診票と、保険証情報に目を通す。
 まず住所。町の反対側だった。アイツの自宅からうちに来るまでの間に、歯科医院は5軒もある。これだけで、前医でなにかトラブってうちに来ざるをえなかったのではないか? と、勘繰ってしまうのを振り払って、保険証情報に目を通す。
 国保、家族。年齢は三十路───老いた両親の元に生まれた長男であるらしい。農家の跡継ぎ、自営業の手伝いである可能性もあるが、既にバイアスがかかっていた私には、アイツがニートか、それに近い生活を送っているとしか考えられなかった。
 だから社会性が鍛えられることなく、飛び込みで横車を通そうとしたのか……歯科開業医なら、これくらいの推理はた易いだろう。ましてやナマポだったら……。いや、初見の患者にはこれくらいの心構えは必須だと思うが、いかがだろうか。

 面倒が起きそうな患者、人気アニメ・PSYCHO-PASSサイコパス風に言うならば、近い将来に犯罪を犯す可能性がある“潜在犯”として隔離されるべき人物なのだろうが、そこは弱者の味方であり続けるよう社会に期待されている医療従事者でもある我々、無下に扱うわけにもいかない。
『面倒が起きそうな患者は、最初から拒絶、けんか腰で接するのではなく、敬して遠ざけるようにしなさい』 
 とは、有名な開業コンサルタントの弁であるが、あながち間違いでもない。しかし、社会構造が複雑化、多様化した昨今に於いてはいささか時代おくれである。やったもん勝ちになりつつある昨今、残念ながら人を見たら泥棒と思え、が普遍的で安全な心得になりつつあるのは、みなさん承知のことだろう。

 それはさておき、モンペとの初見。
 古いインレーのダツリで、窩洞には多少の二次カリが見られたが、なにせ割り込み患者。問診票にも、『気になる箇所の治療だけでよい』にチェックが入っている。他の大きなカリエスには目もくれず、粛々と再セット。そしてセット後の注意点を述べたら、モンペは笑顔でこう言った。
「わかりました。急なお願いなのにつけてくれて、ありがとうございます」
 実に意外だった。再セットしたらしたで、きっと何か言われる、そう覚悟していた。というのも、モンペは口を開けながら終始、私の目をずっと鋭く見つめ続けていたからだ。俗に言う、情緒に異常をきたした者によく見られる「三白眼」というやつだった。
 その様子を間近で見ていたDHは、ひと言「気味が悪い」と漏らしたくらい。それだけに、モンペの反応は予想だにできなかった。
 当時の私はレイシスト(差別主義者)ではなかった。
 だから「ありがとう」のひと言で、相手に対する心の垣根は容易に乗り越えられるほど低くなる。故に、
「彼は人と接することに慣れていないだけで、案外マトモなのかもな」
と思ってしまった。そしてモンペも、私の対応に気をよくしたのか、受付で他のカリエスを治療する予約をして辞去したのだった。
 だが、「気味が悪い」と評したDHは、
「先生、あの人を治療するんですか?」
と告げ、受付も眉根にしわを寄せた表情でうなずいている。何度も、
「本当に予約をとってかまわないんですね?」
と念を押される始末。 
 案外、治療にばかり目が行きがちな術者より、常に“人間”を見ている女性スタッフの方が、患者の、いや人の善し悪しを敏感に感じ取れるのかもしれない。そして彼女らの判断が正しかったことは、すぐに証明されることになる。

パターン化するクレーム

 モンペの治療が始まった。アイツが言う「黒いところ」の処置───下顎大臼歯のインレー形成から始める。
気味の悪い目つきは相変わらずだが、わたしの説明にうなずき、時に笑顔さえ見せる。
 なんだ、警戒するほどでもなかったな──
 そう安堵した日の昼休み、受付が院長室に血相を変えて飛び込んでくる。
「先生、電話代わってください。あの人からです!」
 “あの人”が誰を指すかは尋ねるまでもない。聞けば、必要のない治療をされた。勝手に治療をされたの一点張りなのだとのこと。ところが私が電話を代わり、
治療箇所はあなたの指示ですよね?
治療内容には同意しましたよね?
と穏やかに告げると、鼻息だけが聞こえる長い、じつに長い沈黙のあと、わかりました。すみませんでした、と電話を切るのだった。
 そして何事もなかったように後日にインレーをセット。他に治療希望しないでくれー、と心に叫ぶのも虚しく、
「次はここを治療してくれ」
と言う。過日のことがあったから、ことさら念入りに治療を説明し、同意を取り付けて、モンペが指摘する「黒いとこ」にインレー形成。そして数日後にクレームの電話が入るのだった。

電話でしかクレームをつけられないのは社会に適応できない証左か?

 三度目の電話クレームは、前日にインレーセットした後だったので、
「うちでの治療が気に食わないなら予約はキャンセルしてください」
そう突き放すと、モンペは長い沈黙のあとに短く、
「そうする」
と告げて電話を切ったのだった。

出禁相当なのに、俺の馬鹿バカ………

もうアイツは来ないよ。
そう告げるとスタッフも心底安堵したらしく、実にハッピーな雰囲気に診療所が包まれていくのがわかった。
 元来、当診療所は少ない患者を充分な時間をかけて診るスタイル。決して儲かるビジネスモデルではないが、患者とスタッフの心の安寧を第一に考えていた。それが自分自身の喜び(自己満足)でもあったのだが、そんな幸せは長く続かないのが世の常。
 痛いから診てほしい、
とアイツから予約の電話があったのだった。
 今にして思えば、断ってもよかった。自分で言うのもなんだが、私も人がいいというか、疑うことを知らないというか、理不尽な目に何度も遇っておきながら懲りない……というか。ただ、その時に脳裏に浮かんでいたのは応召の義務というシバリ。 過去に問題行動を起こしたのであれば治療を拒否してもかまわないのだが、それは人心が荒廃した現在の解釈。当時では許されないことだ、と馬鹿正直に考えていた。本当に私は馬鹿だったと思う。

 痛みの原因は上顎小臼歯の歯髄炎だった。
むろん、そこに大きなカリエスがあることは初診時からわかっていたことだ。手を着けたくない一心で指摘しないでいた。しかし患者の愁訴とあってはいたしかたない───タイムマシンで過去に戻れたなら当時の自分に、
「あの野郎に不可逆的なことは一切するな!」
 と全力で止めるに違いない。しかし当時の自分は、医療従事者としての矜持の方が勝っていた。丁寧に局所麻酔を施し、ラバーダム下、エンドモーターを使用し、シングルポイントで根充。
 この間、最凶モンペはおとなしかった。目つきは相変わらずの三白眼だったが。
 そしてコアをセットしてから、
「歯肉から上の歯が殆ど残っていないから、かぶせることになるんだけど、保険では金属か、強度的に弱いけど歯の色に似せた硬いプラスチックを選べるんです。どちらを選びますか?」
 の問いに、最凶モンペは即座に、
「丈夫な方で」
とオーダーしたのだった。

バカに理論や理屈は通用しない

 やれやれ、これであの気味悪い目つきともおさらばだ。
 そう安堵する間もなく、FMCをセットした数日後の昼に電話が鳴る。
「差し歯にしたんか?」
 受話器を握る受付の手が小刻みに震えている。
 助けてくれ、と言わんばかりの彼女の視線に促され、治療を中断して電話に出た。するとまた、
「差し歯にしたんか?」
ときた。もはや保険治療で、いわゆる差し歯は存在しない。
 歯冠の崩壊が大きいから、全部被覆冠にせざるをえないのは説明したはずだった。
 金属になるのはモンペ自身のチョイス。
 要するに銀色にしたのが気にいらない、ということらしい。だけど弱いのは嫌だ、ともぬかすに至って、もう腹は決まっていた。
「カネは出すから、白くて丈夫な保険外の歯を入れてくれ」
 お断りだった。
 そこで私は、
「馬鹿か、てめえ。今まで散々ゴネておいて。てめえにはよ、一億円積まれたって、いかなる治療もしてやるもんか!」──────と、本当は言いたかった。
 傍から見たら、私の表情は怒髪天そのものだっただろうが、
「うちは田舎の歯医者で、保険のきかない白い歯はやってないんですよ。だから自費をメインでやっている中心街の歯医者で相談なさってください」
 ありったけの悪罵を飲み込んでそう告げると、いろいろな治療の不都合を訴えてきたのだが、もはや聞く耳はなかった。

 中心街の先生には申し訳なかったが、私は他の診療所に丸投げ、厄介払いしたのだ。
 そして最凶モンペは私の勧め通り、ターミナル駅前の、次いで、最繁華な自費メインの診療所を受診したのだが、そこで警察が介入するほどの問題を起こしたことを知ったのは、この時点から5年後───再びアイツと対峙することになる事件のあとのことだった。
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