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我を張っているときって、どこか角ばっている、丸くいこう、心ころころ

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【今週の自戒】
〜我を張っているときって、どこか角ばっている、丸くいこう、心ころころ〜

日々のビジネス上の対話の中で、
年末だからか、角張った話が
耳に入ってくる様な気がします。

前後左右なく
『これやっといて』
『ついでにできるでしょ』
『やれるよね』
『できないの』
刺々しい、えっ?このタイミング?
ってそんな心無い、指示命令で
塞ぎ込んでいる人と会いました。

これもなにかの知らせ、
その人とはもうビジネスをするな
って教えてもらっていることだと。

角張った言葉を発する人とは
長続きしない。
それがわかっただけも大きいこと。
その人とはこんな会話をしていました。
そしてどこか他責になっている。。。

自分への戒めに
角張った言葉を発しないように。
・出来もしない約束はしない
・焦ったタイミングで動かない
・できない自分を隠さない
・忙しい時ほど余裕を持って
・非をきちんと認められる
・ワクワク感で行こう

棚卸しって大切なこと
人付き合いの棚卸し、
心の棚卸しができる時間も必要。
心ころころ丸く活きていけるように
今週も
よろしくお願い申し上げます。

我を張り続ける人には、
小さな努力を怠っている、
継続力(人付き合い、事業の継続)
が低いように感じます。
小さな努力を大切に。

【小さな努力の積み重ね】

渡辺和子氏の心に響く言葉より…

一人の学生がこんな手紙を書いてくれた。

「小さな闘い…幼い頃よく聞かされた努力とか忍耐ということを、知識が多く入って来るにつれて、私はないがしろにしてしまったようです。
理想や、大きな結果ばかり追っていました。
…たいせつなのは、これら小さな努力の積み重ねではないでしょうか。
小さな苦労をいとい、自分自身の生活をコントロールできなくて、どうして『神だ』『愛だ』と言えるのでしょうか」

大学3年生のこの学生は、だから「小学生の道徳のようですが」と前置きして、「これからは早起きすること、一つひとつの授業に打ち込むこと、何ごとも後にまわさないこと、気分に左右されず、一定の時間勉強し、定刻に寝ることなどを自分に課していく」というのである。
これは、この学生にとって、実行するという決心であると同時に、いやそれ以上に、自己変革への決意と言ってよいだろう。
私はこの手紙を読んで、はからずも数週間前に手にした草野天平詩集に書かれていた言葉を思い出していた。

「いくら立派な詩を書こうとしても、詩的生活が安易で一般と大差なければ、形も精神も人も打たず、特別な響きなど到底生まれてくるものではない。
詩の本質は憧れに向かって実際歩くことで、難しいのはこの身である。
向こうの世界と歩き方の純粋さにある」

先述の学生の言葉ではないけれども、「神だ」「愛だ」といくら立派に説こうとしても、説く人の日常生活が安易に流れていて、そこに厳しさがないとすれば、その言葉も精神も人を打たず、人の心を動かすことなど到底望めたことではない。
難しいのは、いかに説くか以前の「この身」であって、いかに毎日を生きるかにある。

「小学生の道徳」のようなことでいい、というか、むしろ、それさえできていない自分が恥ずかしい。
新しい年には、小さなことでいいから、一つずつ自分に課してゆくものをつくり、守ってゆこう。
それは「自分らしさ」というものをつくってゆく近道ではないだろうか。

わずらわしい人間関係の渦の中で自分らしく生きてゆくには勇気がいる。
自分はこうありたいという理想への現実的な忠実さが求められる。
それは、悪意を持っているとしか考えられない相手に対して、なおかつ善意を失わないことかも知れないし、無礼な態度をとる人に礼儀正しさを崩さない毅然とした人格の在り方をいうのかも知れない。
「心におさめる」ことを知っていたマリアのように、神との対話を優先する生き方であり、神のまなざしに映る自分の姿を絶えず正すことによって、他人からの評価にそれほど一喜一憂しない自分を創り上げてゆくことでもある。

それは決して、ひとりよがりの生活をすることではなく、一つひとつの思い、言葉、行動に自分なりの意味を与えることによって、自分のものとしてゆく責任ある生き方への努力である。
淋しさを味わわねばならない時が必ずあるだろう。
しかし淋しさなしに個の確立はあり得ず、孤独をかみしめたことのない者に、他人への真のいたわりとやさしさは生まれない。

来年はいつにも増して機械化、自動化が押し進められる時代となるだろう。
文明の進歩を手放しでよろこぶ前に、そのために人間が失いつつあるものにじっと目を注がなければならない。
繰り返すことしかできない機械に対して、二度と同じ時間を過ごすことのできない人間が、そのかけがいない一生を充実したものとして過ごす一つの方法は「自分らしく生きる」ことではあるまいか。

一つひとつの物事に、一人ひとりに心をこめて接してゆこう。
一日一日に自分の人格をきざみつけてゆこう。
そこに自分にしかつけられない「生の軌跡」がつけられてゆく。
自分らしく生きる強さは、他人にも「その人らしく生きる」ことを許す寛容を生み、相手をやさしく包んでゆく。

やさしくね、やさしくね
やさしいことは強いこと

宮城まり子さんの言葉が、そんな生き方を裏づけ、励ましてくれるようである。

『あなただけの人生をどう生きるか 若い人たちに遺した言葉』ちくまプリマ―新書

哲学者の森信三先生は、躾(しつけ)の三原則を提唱している。
【しつけの三原則】
1.  朝のあいさつをする子に。 それには先ず親の方からさそい水を出す。
2. 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。 それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
3. 席を立ったら必ずイスを入れ、 ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。

挨拶の基本は、人より先に挨拶をすることを心がけること。
そして、呼ばれたら必ず「はい」と返事をし、席を立ったら椅子を入れ、脱いだ靴は揃えること。
「はい」という返事は自分の「我(が)」を捨てる一番よい方法だ。
我ままになったり、偉そうになる気持ちをおさえるからだ。

躾(しつけ)とは習慣化のことだ。

人前で、どんなに偉そうなことを言ったとしても、「あいさつ」「返事」「後始末きちんと」という基本動作が習慣化できていない人には信用がない。
小学生で教えるような「躾」ができていない大人は多い。

長く続く良き習慣は、その人にとっての「信用」であり、目には見えない財産だ。
小さな努力の積み重ねこそが、習慣化の第一歩。

それこそが、「凡を極めて非凡に至る」ということ。
誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けてゆくと、「非凡」という人より一頭地抜きんでた人となることができる。
「凡事徹底」の人でありたい。

上記の【小さな努力の積み重ね】については人の心に灯をともすより引用しています。

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