思わず「詭弁詭弁詭弁詭弁!」と言いたくなった動画の話 ~棚上げからはじめる個性の哲学
詭弁。
人によっては一度も使わずに一生を終えることもあるであろうこの言葉を、猛烈に連呼したくなる動画に先日出くわしました。
その動画がこれ。
厚労省が出している『新型コロナワクチンについて正しく知った上で判断しましょう』という動画です。
この動画にはこんなセリフがあります。
職場や周りの方などに接種を強要したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをすることのないようお願いいたします。
これほど詭弁という言葉が相応しい発言に、僕ははじめて出合いました。
コロナ差別の一端を担っている厚労省(国)が自らを省みることなく、「差別はダメなことだからやめましょう」と、僕ら国民が頑張らなきゃいけないような話にすり替えている。
五億歩譲って僕らが頑張るのはまだいいとしましょう。
既に生まれてしまった差別を避けるのは、それはそれで大事なことです。
でも一言言わせてほしい。
「あんたらは差別を無くすために何をしたの?」
詭弁の論理学
詭弁とは、平たく言えば、自分は正しいということをあの手この手でゴリ押すことです。
僕らは自分が問題の一端を担っている自覚がないと、厚労省のようなことを平気でやってしまいます。
※無自覚にやっている詭弁は誤謬(ごびゅう)と言います。
以下区別して表記します。
例えばコロナワクチンの件で差別する人は自分の無知(偏見)を棚に上げ、芸能人の不倫を批判する人は自分の行いを棚に上げ、子供に「勉強しろ」と言う親は自分の不勉強さを棚に上げていたりするわけです。
棚に上げるとは、自分に都合のいい話を展開するために自分にとって不利なことを隠す(論理をすり替える)ということですよね?
今こうして偉そうなことを言っている僕も、自分の無力さや無知・無能を棚に上げるという誤謬を「自然と」犯しています。
これだけ見ると僕ら人間はつくづく残念な生き物だと思うわけですが、「そこ」が実はチャンスなんじゃないかと思うんですよね。
誤謬の社会的役割
誤謬とは、人間らしさの1つだと僕は思っています。
飲み会や井戸端会議で自分たちのことを棚に上げて、他人のことをあーだこーだ話すのは楽しかったりしますよね?
「渡辺さんってホント、気が利かないよね」
「ホントそう」
「もっと周り見ろよ、って思う」
「まったくだわ」
「私なんて今日イケメン田口君の顔50回は見たわよ」
「それはどうでもいい」
みたいな会話って、誤謬かもしれないけど、それ自体が関係づくりにとって大事だというのは分かると思います。
この会話に割って入って「あなたたちの会話って、自分のこと棚上げしてるよね?」なんてことを言おうものなら、みんな興ざめ、村八分確定です。
要するに誤謬って、僕らが社会的生活をおくるために必要なものである一方で、多くの人にとっては直視したくないものでもある、ってことなんです。
「痛いところ」を正しく突く方法
僕らが誤謬を直視したくない(しないようにしている)のは、それが自分の「痛いところ」だからです。
学生の頃に親から「勉強しなさい」と言われてムカついた経験がある人はいっぱいいると思いますが、あれは
1.それが私にとって「痛いところ」だから
2.親が自分の「痛いところ」を棚に上げているから
という二重の意味でこっちの感情を逆なでしてるんですね。
でも面白いもので、自分のことを棚上げしない(誤謬を犯していない)人の発言だったら「痛いところ」を突かれても案外素直に飲み込めるんです。
家で必死に資格の勉強をしている親がいたら、なんか勉強してない自分が後ろめたくなりませんか?
というか、そういう親の背中を見てたら自然と「自分もやらなきゃ」って思うんじゃないかと思います。
つまり、誤謬の有無で僕らの影響力はまったく変わってくるのです。
ここまで話せば何がチャンスなのかはもう明白ですね。
僕らは「痛いところ」と真摯に向き合うことで、誤謬にまみれた大多数の人の何倍もの影響力を発揮することができる、すなわち
周りから何倍も慕われ
何倍も大切にされ
何倍も重宝され
何倍も協力を得られ
何倍も楽しく生きられる
ということなのです。
誤謬から脱した人を僕らはこう呼ぶ
自分の誤謬と向き合わない人に、相手の誤謬を指摘する資格はありません。
僕はパートナーに何かをお願いするときは必ず「僕も~するから、あなたも~してくれない?」という風に話すようにしています。
自分は何もしないのに、相手にだけ何かやってほしいなんて傲慢じゃないかと思うからです。
もし厚労省の動画が「私たちもコロナワクチン差別をなくすために~しています、だからあなたも差別しないでください」という内容だったなら、僕は心を打たれていたかもしれません。
行動に詭弁や誤謬はありません。
子供や部下、後輩、仲間など、誰かに変わってほしいと思うなら、まずは自分が率先して変わりましょう。
そういう人のことを、僕らはリーダーと呼ぶのです。