「FPの頃」 6.教育のために本を整理。

 必ずしも「教育者」だったのかどうかは知りませんが、サイタニ社長にとって理想的な出版社、編集部の姿というものは漠然と(?)あって、既存のスタッフは日々忙しくて彼らにどうこうは言えないので、新人は彼の理想を追うための実験体(?)となります。
 当時のFPは阿佐ヶ谷にマンションの一室を書庫として借りていました。編集部も営業部も新宿にあるのに書庫が編集部? と最初は謎でしたが何のことはありません、サイタニ氏の自宅が阿佐ヶ谷にあるのです。
 例えば、編集部とそのマンションの書庫の整理法について新人たちはディスカッションさせられます。著者順? タイトル順? 出版社別? 発行年順? 等いろいろ分類の方法はあるかと思いますが、漫画情報誌編集部としてどの方法が最も優れているか…を延々議論させられるわけです。ある日サイタニさんは「KJ法で進めるのがいい」と言いだしました。カードを作ってグループ化したりする思考の方法ですが、これが蔵書の分類法の検討の役に立つのか? と思いましたが逆らうのも面倒(?)なので、言われたとおりにやりました。この作業は蔵書棚の整理ばかりではなく、関わった新人たちのスキルアップのためと言われていましたし…。
 その結果、蔵書をどう保管すべきかの結論がどうなったのかについて私はまったく記憶していません。本当に、あれ、どうなったんでしたっけ? 途中で先輩のスタッフたちがサイタニさんに「忙しいんだから新人たち返してくださいよ」という抗議をしたことだけ覚えているような。延々と毎週やらされたことだけ覚えています。そんな話し合いはいいいからきれいに整頓すればいいのに…くらいしか考えられませんでした。残念な自分には。

 ただ、この意味があるのかないのかわからない日々の間に、阿佐ヶ谷のマンションで、長井勝一さんのお話を伺う機会があったことだけはありがたかったです。青林堂の社長を退かれた頃だったように記憶していますが、あやふやです。長井さんの退職金(?)が借金差し引いて2,000万円という話を聞いて「安くないか?」と思った記憶も曖昧。「ガロ」を創刊したきっかけは大手では白土三平先生の『カムイ伝』の連載ができないからとは仰っておいでだったかと。漫画業界のレジェンドは温厚で優しい人でした。後に「女性作家は長井さんに尻を撫でられたら一人前」のような伝説(?)があることを伺い、時代のおおらかさを感じました。
 細かい時期は記憶していないのですが、当時の青林堂は神田の材木屋さんの2階にありました。2階と言っていいのかわからないほど1階の天井が高いので階段が長かったです。階段には延々と在庫と思しき荷物が積み上げられていました。社員さんは午前中に営業として注文のあった書籍の発送作業をして、午後から編集作業を行うと聞きました。大変だなあと思いつつも、漫画好きにとっては憧れの出版社です。
 青林堂を買収したのはツァイトというソフトウェア関連企業でしたが確か渋谷区初台にオフィスがあったかと思います。文化的遺産として神田のオフィスも残すと社長が仰っていた気がします。後に、ROM版の「ガロ」? みたいなものを10万部とか20万部とか作ってたような気も…しますが、なんで「ガロ」本誌の何十倍も売れると思ったんだ? と疑問に思ったことだけ覚えています。

 本の整理の話でした。あの時は「司書の資格取っておけばよかったなあ」と思いました。

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