身体に現れる「病」という表現の捉え方
自分の機微に呼びかける100日ドリル 16
さて今日は、お布団の中で気が付いた時にはすでに、家庭の人としての予定活動時刻が迫っており、あきらめて息子のふわふわおしりの感触を感じたりぬくぬく毛布~とか言っておねぼうさんの幸せを嚙み締めました。
それからかいがいしく、いやどうかな、まぁアレコレ立ち働き、子二人を然るべき場所へ送り届けたりなんやかやしたので今から書いてみよう。
小南式ワークstep4。
病気をネーミングし、感謝の気持ちを持つ自分を意識のコンテクストに創る。自分の身体に現れているどの表現を「病」とみなそうかというところだった。
慢性的な不定愁訴や精神的な未熟さを取り上げたいところだが、はじめはわかりやすく、昨日の例の通りに腰の痛みにフォーカスしてみよう。
プラス、一昨日の夜中に腹痛と下痢、そこから胃の調子もイマイチ。腰の痛みと消化器系の一連の不調が、最近目立った「病の表現」と言えそうだ。
「腰痛ーようつう」という一般化した呼び方より「腰イタ」と言ったほうが自分のネーミングとしてしっくりくるなあ。
「腰イタ」「お腹イタ」「ゲリピー」「消化フリョー」たち、、
「ありがとう。あなたたちが私の身体で表現してくれたおかげで、私は自分を顧み、自覚を高め、人との関係においても成熟の一歩を歩みだせます。」
こんなかんじだ。
これで、ワークに向かうための意識のコンテクストの準備が整った。
step1~4 で出てきたものを一旦並べてみよう。
「自分のさびさしさと絶望を感じきり、感じることを取り戻し、自分で自分を掬い上げて許して受け入れて愛の状態に近づき、母であることも妻であることも自分そのままで可能である、という真実に気づくこと」
「内なる作業とは、感じることに抵抗した感覚や感情を取り戻すことであり、思い出すことを思い出すことであり、それによって人生に表出する課題を、それは神秘だと真実だと知ることで癒すことができる自分です。」
「身体は私の大切な一部分で、全てではない。だがとても大切なものです。」
「私の持つ意識のパワーを真実に、感じること、思い出すことを取り戻し、内なる自分を掬い取り、いつも一緒にいることで癒し、内と外にある課題は神秘の姿を取り戻す。世界とは私。」
「腰イタ」「お腹イタ」「ゲリピー」「消化フリョー」たち、、
「ありがとう。あなたたちが私の身体で表現してくれたおかげで、私は自分を顧み、自覚を高め、人との関係においても成熟の一歩を歩みだせます。」
なんかネーミングがふざけててて深刻みに欠けるけどまぁいいや^ ^
私の言う成熟ってなんだろう、、やはり、愛の状態に近づくことでしょうかねえ。狭くてさびしくて心もとないと思い込んでいる私が、境界のない、あまねくものと一体にある状態、愛にアウェアネス!霊的自我・社会的自我。うーん。私の興味はひろがっている。
恥ずかしがらないで、取り繕わないで、そういう興味を書いたり話したりしていきたい。
コンテクストの準備が終わり、step5.6. は内面への問いに入ります。
5.自分に「治癒が完璧に起きてもよいか?」と聞くこと。
6. 「病気は治癒し得るのか?」と聞くこと。
無意識下にある「病気であることで被るメリット」
例えば同情を集めることや責任を逃れること、環境や人のせいにして被害者的に振る舞うこと
「それを手放すことへの恐れ」「諦め」などの隠されたモチベーションを意識の上に登らせることを、自分への質問によって行う。
無意識を意識の上に登らせるためには、コンテクストの準備の時とは少し違って意識的に納得する答えを当てにせず、ふっと上がってくる思いを認めること。私は対話する感じで進めていきたいと考えた。
ふむ、長くなってきたのでここらでおわり。
楽しい。
今日のばんごはんはお鍋にしよう。