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転がり続けていたらコーヒー屋になった

事実は小説より奇なり
渡る世間はピン子とえなり

少なくとも自分の人生の前半部分は、小説に書き下ろしたいぐらいには奇妙で、渡る世間は鬼ばかりだった。

今回のnoteでは僕がコーヒー屋になるまでの半生をばっさばっさと端折りながらダイジェスト版で綴ろうと思う。

前回と同じように僕たちの境遇や選んできた道が、もしかしたらどこかの誰かの参考や励みになればという願いを込めて。

母はロックなんか聴かない

今はもういないが、僕には当時、4回結婚して4回離婚した母がおり、アル中無職の育ての父がいた。

母は生粋の商売人で、いくつもお店を作り、そのどれもが大繁盛した。
昭和19年の戦中生まれとは思えない先見の明もあった。

ワープロが登場し、普及し始めるとすぐにワープロ教室を開き、赤子の僕を背負いながら生徒に教えていた。

ただ、難点を挙げるとすると、母は子育てにはあまり興味がなく、そして大がつくほど飽き性で継続力がなかった。

僕が生まれたとき、母は当時の夫(僕の実父)と広告代理店をやっていた。ワープロが広まり始めると、すぐにワープロ教室に改装した。

その後の変遷はすさまじい。

広告代理店→ワープロ教室→カラオケ鉄板焼き居酒屋→スナック→喫茶店→クリーニング屋→古着屋→洋服リフォーム店

この間、わずか10数年。例外なくすべて繁盛していたが、2年以上続いた事業は覚えている限りひとつもない。

そのせいで家庭は表向きにはキャッシュがあるのに常に家計は火の車という没落貴族のお手本みたいな状況だった。

実際、35年前当時の暮らしぶりでも、商売で儲けると4階建のテナント付き一軒家を買い、テレビ付きのクラウンを買い、辞めるときには何の躊躇もなくそれらを売ってキャッシュにして次の商売を始めた。

事業は選択と集中というが、母の場合は選択と撤退の10年だった。

そして、その10数年の間にも5回の引越し、そして離婚と結婚が1回ずつあった。僕の方はエリア的に転園が3回と転校が1回で済んだが、何も分からないまま苗字が1回変わった。父親が違う兄の方は結局苗字が2回変わった。

僕はADHDとASDの併存診断を受けているけれど、母もおそらく確実に何かしらあったと思う。

当時はただただ苦しかったけれど、今となってはそんな母の怒涛の選択の連続に尊敬できる部分も出てきた。

何を選んだとしても自分自身を生きる。
いや、何を選んだとしても自分自身を生きることができる。

そんな強さの部分。

僕はロックが好きで、母はロックなんかほとんど聴かなかったが、身近にいた人物の中でもその生き様たるや、実は一番ロックだった。

母が人生で何を求めていたのかは分からない。ただ転がり続ける石のように進んでいたのか、黄金の心を探し求めていたのか。今となっては答えは風の中だけれど、自分が歩んだ選択に後悔している様子はなかった。

モンスターのいない世界で

母の話はこの辺にして、ここからは僕の話につながっていく。

僕は今、大阪の野江という街で妻と一緒にEncore! Coffee Roasteryというコーヒー屋を営んでいる。

これは紛れもなく自分たちで選んだ道で、本当に開業して良かったと思っている。

母と一緒に生きた人生の前半部分において、僕が自分の意思で選択できたことはほぼなかった。

家庭はほとんどネグレクトだったが、小学校に入学するタイミングでゲーム機は買ってもらえた。

僕は低学年の間、一年の半分以上学校を休んでいたのと、日中の家には誰もいなかったので、ゲームを朝から晩までやりながら時間を潰していた。

特にRPGが好きだった。現実とは別の世界で自分の意思で物事を進めることができたから。ゲームを与えてもらっていなかったら僕の幼少期はかなり悲惨なことになっていたと思う。

数あるゲームの中でも初代ゲームボーイのサガ2というRPGが好きだった。
システムもストーリーもBGMも大好きでやっている間は異世界に転生した気分になれた。

ただ、スイッチを切った後は現実が重くのしかかった。モンスターも世界滅亡の危機もない代わりに、学校ではずっとイジメを受けていた。

中学2年のときのイジメが決定打となり、それから僕は一切の学業を放棄した。

家にいるのも苦痛だったので、消去法で学校には行っていたけど、テストや提出物は名前だけ殴り書きして全部白紙で出していた。

なんの意味もなく、密かに期待していた救いの手もなかったが、それ以外の手段を思いつける知恵もなかった。

中学3年の懇談で「杉山君の行ける高校はありません」と面と向かって言われて、そこからほとんど残っていなかった気力を絞り出して勉強したけど、時すでにイカのお寿司。成績はほとんど戻らなかった。

結果的に数少ない選択肢から情報技術が学べる学科があった工業高校に進学した。

理由はゲームしか好きなものがなかったから。
大人になってもずっとゲームを作ったり、ゲームをして過ごしていたかった。(入学後すぐにゲーム業界はそんなに甘くないと知った)

母にはずっと「お前は中学出たらすぐに働け」と言われていたけど、「周りはみんな高校に行くし、工業高校に行けばよりよい条件で就職できるんだって」と、付録欲しさに進研ゼミをせがむ小学生みたいな感じで説得した覚えがある。

工業高校の図書館で「キッチン」を読み、文学科に進学した

でも、高校1年のとき、たまたま図書館で借りた吉本ばななの「キッチン」を読んで衝撃を受けた。人生で初めて小説に触れた瞬間だった。

境遇もストーリーも自分自身のものとは全然違うけれど、自分の孤独や人生が肯定され癒されていく感覚があった。

それから村上春樹にはまり、片っ端から読んだ。
同時期に洋楽ロックを聴くようになり、TSUTAYAで片っ端から借りて聴いた。

今まで入ったことのない部屋の中で本当の自分を見つけたような気分になり、体温が少し上がって、生命の波打つ脈を感じた。

そのころにはゲームにすっかり興味をなくしてしまった。少しずつ自分の意思で色んな選択ができるようになってきたからだと思う。

これが最初の転換点だった。

彼らの物語や音楽は当時17歳の僕の人生をなぞるように肯定し、「あんたの人生だ。自分の好きなように選べ」と声をかけてくれた。

単純だけど、洋楽と小説の影響で英語と文学をもっと勉強したくなった。

通っていたのは工業高校で、普通科目はほとんどなくパソコンの授業ばかり、英語の授業は小文字のアルファベットを書いてみましょうというレベルの内容だった。

幸いにも担任の先生が英語の教師で、「英検2級合格できたら個別に大学受験対策してあげるよ」と約束してくれた。

母には高校進学も渋々認めてもらえた感じだったので、大学進学を目指していることはギリギリまで隠していた。

英検2級には合格できた。高校生では特に珍しくはないけど、通っていた工業高校では当時、初の快挙だった。そもそもプログラミングの課題そっちのけで英語を好き好んで勉強している人間は1人もいなかった。

約束通り、放課後担任の先生は時間を割いて受験勉強に最後まで付き合ってくれた。

学べば学ぶほど、過去の失われていた時間を取り戻していく感覚と、未来の選択肢が眼前に広がっていく感覚があった。

過去と未来が混在するだだっ広い次元の広野に立っているような気分だった。時折り背中越しに風が吹き抜けるような広野。

背の高い草木を軋ませ揺らすほどの強めの風が吹いた後、第一志望の大学に合格した。

就職を目的とする理工学系の高校に進み、なぜか英語と文系科目をひたすら勉強して大学の文学科に進学して英語英米文学を専攻した。

もちろん大学進学の際には母と一悶着あった。
何のためにパソコン勉強したんや。文学なんか勉強して何の仕事があるんや。

詳しくは今回は書かないけど、奨学金も複数借りることができたことと、家からは授業料を出してもらわないということで進学することへの折り合いがついた。当時借りた奨学金は40歳になった今も毎月返済を続けている。

すべてがGになる(あるいは上へまいります)

結果的に工業高校の勉強も、大学での勉強もすべて意味があった。

もちろんプロの方々には敵わないけど、今のお店でのメニュー表やショップカード、ポスターなどプロダクトデザインはほとんど自分でパソコンを使って作ることができた。

ろくに書けなかった文章も、ある程度形にできるようになったのは大学に行ったおかげだと思っている。

僕の場合、会話は好きだけど、意思疎通や相互理解のためのコミュニケーションがてんで苦手なので、それらをすべて文字にして伝えることができるようになったのは、ある意味社会を生き抜くための武器を手に入れた感覚があった。

就活時期の話はまた別のnoteで書こうと思うけど、全戦全敗のなか、最終的に卒業アルバムを制作する会社に就職できた。文字と同じように写真で何かを形にすることや編集にも興味があった。

そこで勤めた6年間では、カメラマンとしての業務をメインに、営業や編集などもさせてもらった。

一眼レフカメラを握ったこともなければ、写真やレイアウトのセンスなど皆無だった自分にとって、今の仕事でとりわけフル活用できている一番実用的な学びを得ることができた職場だった。

営業の経験も、最も苦手だった人とのコミュニケーションと一般的な社会常識をある程度身につけることができた。

この頃からすべてが重力加速度的に進んでいき、梅田の直通エレベータでビルの最上階に一気に登るときのぐんと体を押し付けるようなGを感じた。確かに上に向かっている。

選ぶことを選んだ

もしかすると普通のことなのかもしれないのだけれど、こうして自分がいろんなことを自分の意思で選ぶごとに、そして学んでいくごとに架空の世界地図が書き足されていく感覚があった。

僕は高校時代に初めて自分の意思で、架空の世界地図にひとつの点を描いた。

その後も右往左往しながら、西に点、東に点、真ん中からやや南西に点と、自分で選んだ場所に点をすこしずつ増やしていった。

それらの点と点がつながり、線になり、幾十にも折り重なった線が立体を描いた。それが今のEncore! Coffee Roasteryなのだと思う。

スティーブ・ジョブズのかの有名なコネクティング・ザ・ドッツの話を引き合いに出すのは何だか小恥ずかしい気分になるけど、15年前からずっとMacBookだし、スマホもiPhone一筋なのでここは遠慮なく引き合いに出させてもらう。

発達障害の特性も今はそんな点の一つだと思えるようになった。

日常生活は完全にポンコツだけど、スイッチが入った時の周りが一切見えなくなる過集中と感覚過敏は、コーヒーの焙煎や抽出にスポッとはまってくれたと思っている。

工業高校を選んだこと、大学に進んだこと、前の会社に決めたこと、妻の一押しで精神科に通ったこと。

転がり続けながら、手当たり次第に掴んできたものたち。その集大成が今のコーヒーショップになった。

僕は今、選ぶことができる。
25年前に初めて自分の意思で選ぶことを選んだ。

そこから全部が始まった。
本当に良かったと思う。

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