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魚豊 『チ。 ―地球の運動について―』 ☆2 殉教者万歳! (9話まで)

ここまでずるい作品は久しぶりに見た。
真理,美,知性,そういう気もちいい概念の皮でもって,古ぼけた二項対立の枠組みを覆いかくしてしまう。美徳は死によって完成され,もはや読み手はその輝かしい自己犠牲の精神にただぬかずくほかない。地動説の受容という約束された勝利にいたるまで,きっと本作には数々の殉教者が登場し,信者であるわたしたちの心を揺さぶることだろう。
真理のために死ぬ! わたしもそんな単純明快な世界に生きてみたい。

※以下の文章は9話公開時点 (2020年12月8日) に書かれたもので,ネタバレもふつうにある。

【追記あり (2020年12月12日) 】
Twitterで本記事に言及している方を見かけ,いくらか誤解をまねく箇所があると感じたので補足を入れた。文中に入れると可読性が落ちるのですべて文末に挿入してある。対応箇所は (i) で示した。noteの仕様はこういう作業に適していないようだ。

あらすじ

本作の構造はきわめて単純だ。
主人公・ラファウは本心では天空の星々に心ひかれているけれど,時代の圧力に屈して神学の道へすすもうとする。そんな折に天体運動の研究者フベルトと出会い,「地動説」なる異端研究に殉じた彼の高潔な精神にふれると心機一転,ラファウは迫害されるリスクを承知のうえで地動説研究にいそしむ。

ここからは無料分しか読んでいない方にはネタバレとなるが,ラファウは4話で死ぬ。異端研究への関与が発覚して宗教裁判 (?) にかけられた彼は,まだ地動説を捨てて社会復帰する選択肢がのこされていたけれども,信念を曲げることをよしとせず,異端の名を背負ったまま自ら死をえらんだ。なんと見事な真理への殉教精神!
ちなみに5話以降は時代も主人公もおおきく変わるが,例によって殉教者ラッシュだ。みな満足そうに死んでいくのでおもしろい。

過去の断罪

まず,地動説と宗教の対立はこんなに単純かつヒロイックなものではない。これは作者自身も認めている。

そもそも実は史実では地動説を唱えただけではそこまで死刑にはならなかったっぽいです。
ただ完全にセーフかというと、そうでもないっぽいです(それにあの時代に地動説とか言う奴は、だいたいヤンチャなので、人から恨まれたり、信仰的にヤバイ事言ったりする可能性も高かったんだと思います、多分)
ホイッグ史観だけに捉われないように勤めますので何卒よろしくお願いします!
――作者のTwitterより (https://fusetter.com/tw/tRqRNjlk#all)

ノリが軽すぎて笑えてくるが,ともあれ史実との乖離を責めるのは野暮というものだ。わたしたちが相対しているのは虚構,嘘っぱちであって,歴史の教科書ではない。オスカル様は実在しない,幕末に南方先生はいない,江戸時代に桃太郎卿はいない,それがなんだ? だから本作が「宗教 vs 地動説」の構造をでっちあげたことに文句はない。ただしその構造の陳腐さは糾弾する (1) 

『チ。』の天動説信者はバカ (2) で拷問の加害者で死後の世界なんてありもしないモノばかりに気を取られているかわいそうな人たちで (これはわたしたち自称無神論者がだいすきな見解だ) ,いっぽうの地動説信者は美の求道者で知性の化身で,真理のためなら死すらいとわない麗しい自己犠牲精神を備えている。

ラファウは死の寸前に語る――あなたがた天動説信者の敵は知性だ,いち組織がおさえこめるものではない。

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『チ。』4話より

気持ちいい! 知性,好奇心,真実を武器に,過去という殴り返してこないサンドバッグを叩く。「地動説が正しかった」という現代の常識によって,天動説信者のあやまちは断罪され,地動説信者の殉死は完全なものとなる。そこには「いずれ現代の我々も断罪される側に回るかもしれない」という相対化の視点は一切ない。この古典的な正義 vs 悪の構造において地動説はただ「正義」を担保する材料であるにすぎず,しかももはや地動説の勝利が盤石となった現代において,その「正義」は揺らがない。わたしたちは安心して正義が悪を倒す姿を見ていればよい。相対主義だの多様性だのポリティカル・コレクトネスだのに侵されて「正しさ」とはなんなのかまるでわからなくなった現代,わたしたちが求めていたのはこれなのだ。わたしたちは考えるのに疲れたのだ。真理が,科学が,宗教を叩く! そこにはなんの葛藤も思慮もいらない。殴り返される心配もない。だって地動説は正しかったのだから。

正義 vs 悪 (3)

わたしは古典的な二項対立をまるまる否定するわけではない。善悪が単純に分かれていてもいいし,対立を壊す覇道のおもしろさは対立を作りあげる王道の堅牢さがあって初めて成立する。

しかし,ステレオタイプな構造を反復するのなら,ふつうは善と悪をとにかく魅力的に描く必要がある。

たとえば『魔人探偵脳噛ネウロ』の終盤はシックスという「絶対悪」をもちいて――このことば自体が相対化された善悪の存在を前提とする――古典的な善悪バトルを再肯定・再構築しようと試みていたわけだが,結局はシックスがあまりカッコいい悪ではなかったために,ネウロの魅力をなぞる程度に終わってしまった。

一方で『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨は,基本的に思想も行動もみみっちい「小物界の大物」であるが,その矮小さがかえってキャラの魅力を引き立てているようだ。善悪バトルの王道をつっぱしった鬼滅において,作品の魅力の大部分が善サイドのキャラ造形に集約されるなか,悪サイドの魅力をほぼ一人で担っていた無惨の力は見逃せない。もちろん猗窩座や童磨,黒死牟あたりもわるくなかったが,やはり鬼滅の善悪構造を支えたのは無惨であるように思う。つまらない悪の前では善もつまらなくなるものである。

残念ながら,『チ。』は善も悪もとにかく陳腐だ。
善サイドの殉教精神はあまりに押しつけがましくて胃もたれする。まったく死というのは都合がよくて,死者はたいてい聖域と化して功罪の追求をまぬかれてしまう。これは一般には,死者は懺悔するすべがないこと,もはや罪を償う主体と成りえないことが原因で生じる倫理,優しさだろうが,ともかく死によってラファウやフベルトの高潔な精神はもはや不可侵のものとなった。死んでくれれば散り際が輝くし,死んでくれればもうキャラを描かなくて済む,そういう精神をまるまる体現したのが彼らチーム殉教者だ。

「美しくない世界に生きたくない」なんてこぎれいな欲求で済ませず,いっそ実際の天体運動が真円でなく楕円であることが許せずハラを切るとか,相対論間違っているおじさん (4) よろしくモアビューティフルなネオ・地動説の探求に心血注いで憤死するとか,そういう本当の狂気をみせてほしいものである。斑目貘がいればエセ殉教者の欺瞞を暴いて生への渇望を引きずり出し,もがき苦しみ焼け死ぬ彼らを横目にカリカリ梅を食いながらあんた嘘つきだねとキメてくれるのだが,15世紀ヨーロッパには嘘喰いもカリカリ梅も存在しないらしい。

悪サイドにいたってはほとんど描かれていない。明確な悪役が不在なのだ。主人公交代という構造上しかたないのだが,継続して登場する体制側のキャラは異端審問官ノヴァクただひとりであり,その彼も元傭兵かつ在俗という明らかに浮遊したアイデンティティのもちぬしであるから,純に体制や宗教を背負ってふるまう主要キャラクターは存在しない。悪とは個体の集合ではなく大きな体制そのものである――といえば聞こえはいいけれども,実際は最序盤に拷問だの迫害だのの単純な記号がいくらか配置されたのみで,もはやなにを相手取っているのかもよくわからない。魅力がないどころか実態すらつかめない悪を相手に,善なる人間がポコポコと殉教ラッシュをキメていく様はまさに空回りというほかなく,読み手としてはただ困惑するばかりである。

ついでに言うと「C教」と伏せ字を使うのも理解できない。嘘っぱちを書いている自覚があるならなおさら,堂々とキリスト教と書くべきだ。中途半端に現実におもねるくらいなら初めから架空の世界を使えばよい。アリストテレスだのアリスタルコスだの15世紀のヨーロッパだの,実在する人物や地名を提示しておきながら,いざ宗教をくさすときは字面を伏せて無関係を装うとはあまりに卑怯だ。作者の意図なのか,編集や出版社の意図なのかはわからないが,嘘っぱちを描いているという矜持と覚悟がないのは問題だし,読んでいて冷める。作者に「そもそも実は史実では…」などとTwitterで言い訳させている場合ではないだろう。

総じて,陳腐な構造,陳腐な善悪。これに「地動説」とか「美」とか「知性」という皮をかぶせるだけでバズってしまうとは恐ろしい。ポストヒーローの時代である現代,英雄は過去をヴィランに仕立て上げることで蘇った。わたしたちは明快でわかりやすい正義に飢えている! それを本作は教えてくれた。喜ばしい話ではないか。

おわりに

対立の問い直しがいつ起こるのかと待ち構えていたが,まったく路線変更の兆しが見えないので記事にまとめた。

とはいえ,毎週文句をたれつつも単話購入をつづけているし,ある意味読ませる作品であるのは間違いない。この露悪的な記事も実のところ愛情の裏返しであるような気さえする。「すごい漫画が来た!」「理系なら読んでほしい!」などとTwitterで騒いでいた人のうちいったい何人が購入に踏み切ったのか知らないが,わたしは今のところ完結まで読みつづけるつもりでいる。

手のひらを返せる日が来ることを祈っています。

追記 (2020年12月12日)

(1)
「脚本と史実に乖離があることを非難している」と読んだ人がいるようだが,くり返すようにそこは問題ではない。「虚構」「嘘っぱち」という言い方が誤解をまねいたのかもしれない。これらは皮肉で言っているわけではないし,悪い意味も込めていない。物語はみんな嘘っぱちで,メディアや作品によってその程度が違うだけだ。

(2)
「ラファウにバカと言わせているのはC教を見下す意図はなく単にラファウの特異性を示しているだけ」と反論があったが,ここでいう「バカ」はべつにラファウの発言をふまえたわけではない。「知性」に敵対する組織として描かれていることを端的に「バカ」と言っただけで,反知性主義でも無知蒙昧でも旧態依然でも時代遅れでもなんでもいい。

(3)
「天動説はべつに悪として描かれていない」とも言われた。わたしは単に「ストーリー上で破られる側の概念」という程度の意味で「悪」と呼ぶことがよくあるのだが,これが誤解をまねいたのかもしれない。
いずれにせよ,「異端思想がガンガン火あぶりに処せられていた時代」という表現と本作の出だしをみて「天動説は悪として描かれているわけではない」と主張するのは苦しい気はするが。

(4)
相対論間違っているおじさんとは,大学の正門前などにときおり出没して「わたしが相対性理論の誤りを証明しました」とポップ体で書かれたチラシを配り,ブログで新たな理論の美しさを説きつづけるおじさんのことである。相対論に限らず,この手のおじさん/おばさんはたくさんいる。学生は彼らに一瞥もくれず歩み去るか,あるいはチラシをTwitterにアップしてウケを狙う。扱いは狂人のそれである。
『チ。』でも固すぎる信念は一種の狂気であることが描かれる。命を捨てても曲げられない信念。世界を敵に回しても貫きたい美学。
ただ,わたしが思うのは,その狂気が美談として受け入れられるのは結局のところ地動説が正しかったから,あるいは読み手がラファウやフベルトの正しさを知っているからじゃないか,ということだ。彼らが「その方が美しいから」という理由で地動説に殉じる姿をみて心地よくなれるのは,地動説が正しかったからではないのか。残念ながら,美しいけれど間違っている理論はいくつもある。相対論間違っているおじさんの提唱する理論も,おそらく彼らの中では相対論より整合性がとれ,正しく,美しいのだと思う。しかし,「美」は物事を探求する強い動機にこそなれ,物事の正しさを保証することはない。だからわたしは「美」を勝利の女神として安易に主人公側へ配置するやり口には反感を覚える。相対論間違っているおじさんが狂人扱いされる一方,ラファウが英雄たりえるのはなぜか? もしその理由が「よく知らないけど相対論は正しいことが保証されてそうだから」なら,それは作中の天動説信者と変わらないと思うのだが,どうだろうか。

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