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加藤健一事務所 『プレッシャー』 ☆9 不十分さを抱きしめる

プレッシャー

君!
いまから3日後の天気を教えてほしい。晴天か,嵐か。なにを使っても構わない。君にしか頼めないんだ。教えてくれるまで,家には帰らせないよ。

あなたはどうするだろうか。
スマホで調べる? ぶん殴って逃げる? 直前までわからないよと答える?

残念ながら,どれも不可能だ。
ここは1944年第二次世界大戦まっただ中イングランドで,あなたは作戦本部に呼びつけられた気象学者スタッグ博士で,あなたの決断が作戦の――兵員15万人,航空機2万機,車両14,000台,戦艦6隻,戦闘艦艇1,070隻,上陸用舟艇6,000隻を投じ,2年以上もあたためてきた文字どおり史上最大の作戦の――実行の可否を決めるのだ。上陸には満月の明るさが必要だ,安易な延期は許されない。

ノルマンディー上陸作戦。なんども映像化され,WW2でもっともよく知られた戦いのひとつであるこの作戦は,晴天なくしては,また晴天をみぬいた気象学者たちなくしては,実行しえなかった。決行日までの数日間,気象学者と軍の上層部はどんなプレッシャー (気圧重圧) と戦っていたのか。
本作はかれらの苦悩と人生を,そして戦争をめぐる物語だ。

観劇からひと月あまり経ってしまったが,素晴らしいお芝居だった。
以下,あらすじの紹介を兼ね,かんたんな感想。千秋楽もとうに過ぎたので,ネタバレは遠慮しません。


第一幕 - 善と悪の戦い?

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パンフレットより

第一幕 (= 前半) が終わったとき,正直にいえば不安だった。展開に納得できなかった。
イングランドの作戦本部に呼びつけられた気象予報士はふたり,スコットランドのスタッグ博士 (加藤健一) とアメリカのクリック大佐 (山崎銀之丞) だ。嵐の到来,作戦の中止をスタッグが主張する一方,クリックは晴れると断言する。両者の対立がはっきりと示されるのが第一幕だ。

しかし2人の対立構造は,とりわけノルマンディー作戦の顛末を知っている観客にとって,はじめから破れている。

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言いあらそうクリック大佐 (左) とスタッグ博士 (右)

「上空のジェット気流が,西の激しい低気圧をヨーロッパ海岸へ運んでくる」と主張するスタッグに対し,「ありえない」と返すクリック。クリックの言い分はこうだ。過去に何度かこれと似た気圧配置があった。そして常に晴れた。今回もおなじだ,東側の高気圧が低気圧を押しかえすはず,これは古典的な善と悪の戦いなんだ,最後にはかならず善が勝つ!
クリックの戯画化された言動とあいまって,気象の知識などカケラもないわたしたちでさえ,クリックの敗北を察する。

スタッグは何度もいう,どうしてあいつらは天気図を三次元的に考えないんだ。わたしたちも同調する。どうみても正しいのはスタッグだろう。いまなら誰でも高層天気図にアクセスできるというのに,当時は気象学者ですら地上天気図しか見ていなかったとは驚きだ。クリックは同じ手法で実績をあげてきたらしいが,きっと運がよかっただけだろうよ。

それでも,そう簡単に作戦を中止できるわけもない。なにしろ二年以上も準備してきた超大規模の作戦だ。士気の低下,情報漏洩のリスク,そして月明かりや潮の条件をおもえば,この機を逃せばもはや次はない。しかしスタッグの言うとおり嵐がくれば,兵士も戦艦もみな波に消える。
最高責任者であるアイゼンハワー大将 (原康義) は,これまで何度もクリックと行動をともにしてきたこともあって,なかなか決断をくだせない。ここ十数日ずっと快晴じゃないか,雨なんて降りっこないよと思うかれら軍部のきもちも――あくまで客席をはなれて彼らの視点に立てばの話だが――理解できる。観客がもどかしさを覚えはじめ,そろそろ第一幕が終わるかというとき,スタッグ博士の補佐が叫ぶ。「アイク〔アイゼンハワーの愛称〕がクリックを信じたら,恐ろしい過ちを犯すことになると思う!」

まったくだ。物語の外にいる観客からすれば,どうみても真理はスタッグ側にある。登場人物らの逡巡はいわばお約束,結末へ向けたタメにすぎず,最後にはスタッグの正しさが示されるにきまっている――『史上最大の作戦』も『プライベート・ライアン』も観ていないわたしでも,それくらいはわかる。たしかにこれは古典的な善と悪の戦いだ。ただし,負けるのはクリックの方である。

わたしは善悪の構造をなんの揺さぶりも問いかけもなく用いる作品が好きではない。とりわけそうした構造が近代的な進歩観をそのまま引き受けるとき,すなわち現代の価値観や科学技術で過去を断罪するとき,わたしは作品を嫌悪する。そういう物語は卑怯だ。
第一幕が終わり,わたしを不安にさせたのはそこだった。このままスタッグが勝利しクリックが敗北するだけの物語だったら,いっそ観なかったことにしよう,とすら思った。

もちろんこれらは杞憂に終わった。この事務所がそんな単線的な話を選ぶはずもなかった。


第二幕 - これでよかったんですよね

舞台後半,物語は重層化をつづける。スタッグとクリックの対立は本作を織り上げる一本の糸にすぎず,話が進むにつれて隅へ追いやられていく。

これは気象の話ではあるけれど,戦争の話でもあり,同時に一人の夫,一人の父親,そして男と女の話でもある。
――鵜山仁 (演出) 

戦争とロマンスの物語。言うは易しだが,戦争は数万の死を語り,ロマンスは個人のちっぽけな生を語る。本作のすばらしさは,この規模感がはるかに異なる二つをなめらかに接続した点にあると思っている。それも「舞台がすべて気象予報室で進行する」という制約のもとで。

すこし話の顛末を述べておこう。
たとえばスタッグの家族描写はこうだ。第二子を身ごもっていた妻が陣痛で病院へはこばれる。第一子の出産時には妻の血圧 (blood pressure) が下がりすぎて危険だったことを思いだし,病院へ行きたがるスタッグだが,作戦直前に本部を抜け出すことはできない。そこでは典型的な家庭と仕事のあいだで板挟みになる男の像が示されるとともに,『プレッシャー』という題が気圧,重圧のほかに「血圧」の意味も担っていたことが明らかになる。もちろん後ろ二つはそれぞれ戦争,家族とほぼ同義だ。

さすがにスタッグが本部を離れるとエラいことになるので,代わりに病院へ向かったのがケイ・サマズビー中尉 (加藤忍) だ。本来ならケイも本部から出ていくことはできないのだが,実は彼女とアイクは愛人関係にあり,彼に頼みこんでなんとか外出許可を得る。

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ケイ・サマズビー中尉 (左) ,アイク (中央) ,スタッグ (右) 
加藤忍は実年齢より20は若く見える恐ろしい女優

アイクが外出許可を出したのは,彼もまた (ケイと不倫しているとはいえ) 子を愛する一人の父親だからだ。それも長男を早くに亡くしている。彼が古傷のいたむ左膝を引きずりながら「あの子に会いたい,毎日思う」「あの子が長男だ,これからもずっと」と語るとき,わたしたちは連合国最高司令官として数万の命を預かるアイゼンハワーもまた小さな家庭をかかえる小さな人間に過ぎないことを確認し,戦争,あるいは歴史という巨大な生物に思いを馳せる。

ケイが戦争に抱く思いも複雑だ。彼女はアイクを愛しているし,彼と家庭を築きたいと心底願っているが,二人をつなぎとめているのは戦争であることにも気づいている。戦争の終わりは夢の終わりを意味する――「戦争はつらいけれど,ずっと続いてほしい」とこぼす彼女の姿には,夢想と無常をともに備えた傲慢な切なさがある。

物語はスタッグたちの「勝利」で終わる。妻は無事出産を終えるし,予報は見事的中する。作戦は一日だけ延期され,嵐のあとのわずかな晴れ間を縫うようにして達成。犠牲の数も想定の範囲内だ。
しかし本作は英雄譚ではない。スタッグやアイクらの判断はおそらく「正し」く,ありうる中で最善の選択をしたのだろう。犠牲は最小限に抑えた。終戦も近づいた。けれども,これは戦争の物語なのだ。物語の外には何万という屍体が積み重なり,腐臭を放っている。

演劇は「個」の世界だ。一万の死者を板に載せることはできない。もちろんわたしたちが同時に消化できる死の数などたかが知れているから,もとよりあらゆる物語は戦争やジェノサイドを真に記述することはできないのだが,とりわけ演劇ではその不十分性が色濃くなる。物語に選ばれた,たかだか数人のプレイヤーで戦争という巨大なイベントを語ることの白々しさ。誰にも語られず「死者数」の概算に丸め込まれ消えていった無数の人生の前では,どんな物語も不十分でしかありえない。それが戦争を描く難しさだと思う。

付け加えると,これは同事務所が以前上演した『Taking Sides それぞれの旋律』でも示されたテーマだった。ナチスとの関与が疑われたドイツの偉大な指揮者フルトヴェングラーは,むしろユダヤ人を何度も秘密裏に助けたと主張し,実際に証拠も複数みつかるのだが,ナチ残党狩りに心血を注ぐ軍人アーノルドは証拠も証人も意に介さず彼に詰め寄る――「人の肉の焼ける臭いを嗅いだことはあるか? 穴に投げ込まれた何万,何十万という屍体の山を見たか? お前がたかだか数人助けたからって何になる? なぜもっと勇気ある行動をとらなかった,お前のいう芸術とやらの価値が,何万という命と釣り合うと,本気で思うのか?〔注:このセリフは恣意的なツギハギで原文とは異なる〕」
アーノルドの問いかけは舞台を飛び越え,戦争を物語として鑑賞するわたしたちの胸にも響いてくる。

この不十分さに抗う方法として,多くの作品では個々の兵隊を描くことが許される。『ヘンリー五世』でも『銀河英雄伝説』でも (これは最近みた作品を適当に挙げているだけだ) ,為政者や軍の上層部だけでなく実際の死地に向かう兵士たちを描くことで,戦争の巨大さに抗っている。それはどこまでいっても不十分にしかなりえないのだが,それでも白々しさを拭うためには欠かせない中間項である。

しかし『プレッシャー』には一人の兵士も登場しない。話のすべては軍の本部内で,それも気象予報室の中だけで展開するのだから,一介の兵士が登場する余地はない。兵士の影が見えるのはわずかにアイクの語りの中のみだ。「自分の命令ひとつで死ぬかもしれない彼らと会うのは辛い」「彼らはわたしの子どもなんだ」「兵士に乾杯,神よ,彼らを守りたまえ」

アイクはさらにつづける――「神を信じていなければ,軍隊の指揮などできはしない」
わたしは妙に納得した。本作には一人の兵士も登場しないが,アイクもケイもスタッグも,一介の兵士と同じちっぽけな存在にすぎないように思われた。歴史という巨大な生物をこまかく切り分けて調べると,きっとどこまでもただ矮小な個人があるだけなのだろう。数万という命を預かって生きられる人間は存在しない。神に委ねるか,狂うかしない限りは。

兵士という中間項を介さず,死地を描かず,それでも戦争を語ろうとした本作は,半端どころかかえってリアルな「人間」をみせてくれたように思う。作品を締めくくるのはケイのセリフだ――「これでよかったんですよね?」
スタッグは返事をせず,ただ黙って天気図をふたたび眺め,そっと撫でるように手をかざして幕が下りる。

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スタッグの後ろ姿

本作でいちばん重要なセリフだ,と思った。ケイの夢が終わる。数多の兵士が肉となる。彼らは最善を尽くしたが,歴史という「個を没入せしめた別個の巨大な生物」を前に,人はただ「運命に従順な子供」であるにすぎない。
これでよかったんですよね。ケイもスタッグもアイクも,この問いとも諦めともつかない言葉を反復するほかないのだろう。抱えた責任に対する自己の小ささ,語り尽くせぬ不十分さ,それらはどこまでいっても不十分でしかありえないから,人事を尽くした以後は抱きしめて生きる以外に道はない。

科学,気象,戦争,力強くて大きな物語の裏にある,ちっぽけな個。あるいは矮小な個の積み重ねとして屹立する科学や戦争。くり返すように,本作は悲観的でも楽観的でもなく両者を連続させたところに巧みさがあり,それは脚本のみならず演出と役者陣の並外れた力量がなければ成しえなかった。

いいお芝居が観られてよかった。ありがとうございました。


わからなかった点

◯音楽
物語の重さと対照的に,暗転中にながれる音楽はどれも明るい音色だ。しかしはっきり曲名がわかったのは”Somewhere Over the Rainbow"くらいなもので,もうすこし音楽の知識があれば作品をもっと楽しめたように思う。

◯国民性
サマスビー中尉がスタッグに親しみを感じていく過程がいまいち掴めなかったのだが,おそらくイギリス特有の国民性のようなものが影響しているのだと思う。ケイがスタッグに「わたしもあなたと同じスコットランド出身です」と告げたり,アイクが「スタッグはいかにもスコットランド人っぽいよな」などと言ったりするとき,そこにはわたしが想像する以上のニュアンスが込められているような気がする。
すくなくとも,「あなたと同じ埼玉県出身です」と言われても,わたしはあぁそうですかアハハとしか思わないだろうから。


※画像はここ及び公式Twitterからお借りしました。

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