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村田沙耶香「街を食べる」書評(2)(評者:江藤優多)

村田沙耶香「街を食べる」書評(『現代小説クロニクル 2010~2014』収録)

評者:江藤 優多

 この作品を読んで、最初に強く感じさせられたのは「先入観」の有無がもたらす影響の強さだ。体が拒否しながら何かするときに、自然とその物事を体がすんなりと受け入れるなんて稀だろう。寧ろ、無理にやってしまえば、何か異常が起こるのは最早不自然なことではない。逆に心が確実に受け入れる準備をできていればそんなことは起こらない。そういった意味でも、前段階の心の状態が良くも悪くも大きなウェイトを占めると思う。
 理奈は埼玉出身だが、その父の実家が長野の山奥にあった。そのため小学校に上がるまでは、お盆に一週間ほど滞在していた。埼玉とは違う古い一軒家に珍しさを感じ家の中を走り回ったり、外で遊んだりした。また、そこで口にするものは都会のものとは違うように感じられ、普段なら口にしないような野菜にも嚙みついた。しかし、そんな体験が影響してか、現在、埼玉の実家から出て都内でひとり暮らしをする理奈は、スーパーなどで市販されたり、飲食店などで提供される野菜を食べられないでいた。同僚の雪ちゃんに家庭菜園や無農薬野菜の配送を提案されるが、どれも腑に落ちない。そこでふと頭を過ったのは、また田舎で過ごした記憶だった。それは父と山道へ散歩に出た時のことだった。野イチゴを摘んだり雀を打ち落として焼いて食べたりと、まさに自然を食らっていた。そこで、理奈は都内に野草がないか探してみることにした。
 初めの捜索では、公園で蒲公英を発見し持ち帰るのだが、途中で自分の行動に馬鹿馬鹿しさを感じてしまい、足早に去ってしまう。家で調理する際も、汚物を扱うようにまな板の上に更にビニール袋を敷いたし、茹でるときも色が出てこなくなるまでした。結果、その具材を体は拒否したし、体調も悪くなった。そんな中、ある時祖母が長野と東京を比較して言った、「何もちがわねえさね。電気が無駄なだけで、あとは大して変わらねえわ」というのを思い出す。自分の現状よりよっぽど正常な感覚に思えた理奈は、再挑戦を決意し、そこから野生の野菜を摂取するのにのめりこんでいった。
 やはり、心境の変化が、如実に体の状態にも影響しているというのが見て取れた。序盤は記号的意味に囚われ、野草から公園の風景がフラッシュバックしていた。ただ、祖母の言葉から、記号的意味は何の意味も持たないと思い知らされてからは、その世界の感覚が消え去った。スニーカーによって、垣根を越えて歩道を跨いでいったし、記号に忠実に生きないというのが、先入観を取り払って自由に生きることができる方法なのかもしれない。我が道を行き過ぎて、自分の土台から話をしてしまえば、それは相手の視点から見れば変人であり、サイコパスになり得る。だからこそ双方の感覚を擦り合わせて、相手を気づかぬうちにこちら側の土俵に引き摺り込むことが重要なステップになる。こうして、互いにとっての「自然」が出来上がることでこちら側を違和感なく理解してくれるし、相手の先入観を壊すことにもつながる。そうして人は知らぬ間に摺り寄っていき、共感していくのだと思う。

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