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目取真俊「水滴」書評(2)(評者:山口莉乃)

目取真俊「水滴」(『現代小説クロニクル1995–1999』収録)

評者:山口莉乃

 生きていく中で、何か罪悪感や後ろめたい事があった時、その事を考えないようにして記憶から消し、日々を過ごしてしまう事はあるだろう。この物語の徳正もそうだった。
 沖縄に住む徳正は、とつぜん右足が冬瓜のように膨れ、親指から水が滴り落ちるようになった。寝たきりになった徳正の意識は正常だったが、言葉を発する事は出来ず、妻に合図を送る事さえできなかった。徳正の元には毎晩、兵隊たちが訪れる。彼らは、徳正の足から滴り落ちる水を交互に飲んでいくのであった。この兵隊達は、かつて徳正と沖縄戦を共にし、壕に置き去りにされた兵士達だった。そこには同級生で同じ部隊に配属された石嶺の姿もあった。徳正は兵士達を見た時に、危害を加えられると思ったが、悲惨な姿の兵士達は徳正に対して無関心であった。徳正はこの態度に不満を覚え、なぜ自分がこのような目に合わないといけないのか嘆くが、深く考える事を恐れた。だが、だんだんと兵士達の傷が回復するにつれて、話し声が気になるようになり、過去について考えざる負えなくなる。徳正は過去に石嶺から水を奪い、彼を壕に置き去りにしてしまった事を謝るのだった。その後、徳正の足の膨れは治ったが、彼らを弔う気持ちを決意する一方、また石嶺の事を忘れようとするのではないかと不安を感じるのであった。
 沖縄戦で石嶺と徳正が別れた夜の事は徳正にとって大きな罪だったのだろう。足に出た膨れはその罪悪感の象徴であり、艦砲に腹を裂かれて動けなくなった石嶺や地を這って進む兵士達の姿は徳正の記憶にこびりつき、兵士達は何度も壕に置き去りになった姿で徳正の元を訪れたのではないか。特に、徳正が石嶺を置いて逃げ去る間に、這ってきた兵士の手を振り払って痛めた右足の記憶は、彼の不思議な膨れに影響をもたらしていると私は思う。また、足の膨れから出る水は石嶺との最後の後悔であり、兵士達がいつも欲していたものでもあった。石嶺の為に託された水を残さなかった事と兵士達に水を届ける事が出来なかった事の罪悪感が彼の膨れから出る水に繋がり、それを与える事が、徳正が兵士達に出来る罪滅ぼしになっていた。だが、その感情も兵士が徳正に関して無関心であったり、話し声が気になるようになり、どんどん疎ましく感じるようになる。この感情の変わりように約50年もの間、徳正はこのように色んな感情を巡らせていて、だんだんと事実から目を逸らし、この罪悪感をなかったことにしたのかもしれないと思った。そして、この罪悪感はなかったモノなのかもしれない。なぜ自分がこんな目に合わないといけないのかという事は、壕に残された兵士達が感じている事であり、徳正も感じていた事だった。この事件の原点を探すのであれば、戦争が起きてしまった事であろう。戦争がなければ、徳正も罪悪感を持たずに生きる事ができ、石嶺や兵士達も普通に生活できていたのかもしれない。この物語は個人の一面から見る事しか出来ないが、物事には異なる立場が存在し、石嶺達がどう考え、最後を過ごしていたのかは徳正にはわからない。だからこそ、彼は頭で彼等の心情について考え、自分を悪にし、より罪悪感を強く持ってしまったのかもしれない。だが彼等はこの戦争の被害者なのである。私たちは、その被害者達に辛い記憶と向き合ってもらう事しか戦争を知ることが出来ないのだ。
 誰だって向き合いたくない過去があるだろう。生きていく中で、隠してしまう方が良い事もあるかもしれない。自身が経験した辛い記憶は特に私たちの印象に残りやすく、自身の枷になってしまう事が多い。そんな記憶とずっと向き合う事は容易ではない。過去と向き合った徳正もまた、石嶺の事をなかったことにするかもしれないと不安を感じている。
 過去は一生変わらない。だからこそ、何度も後悔してしまうかもしれない。そこで私たちは、その思い出したくない過ちをどうやって次に繋げるのかが試されるのかもしれない。

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