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吉田知子「お供え」書評(評者:山田瑠菜)

 更新が滞っており申し訳ありません。12月後半以降のゼミで書いた書評を一挙更新します。12月17日のゼミは吉田知子回。3回生ゼミでは「お供え」を、4回生ゼミでは「祇樹院」を読みました。まずは「お供え」の書評を紹介します。

吉田知子「お供え」(『お供え』収録)

評者:山田瑠菜

人間と神は紙一重

 平凡な人間が神になる想像をしてみてほしい。仙人のような高尚な存在からいきなり全知全能の力を与えられるのだろうか、それとも徐々に変身していくのだろうか。神に関する空想をしたところで、いくらリアルなものであってもそれは全て人間が創作した夢物語だ。人間と神の差はいったいいかほどか。吉田知子の「お供え」は考えれば考えるほどにスタート地点を見失い、気付いたら足場が崩れ去って虚に放り出され、それまで当然のように身近にあった概念のフレームがぼやける感覚を味わえる小説である。
 主人公の"私"の家には、お供え物とみられる花などが毎日のように家の生垣の裾あたりに置かれていた。いくら捨ててもまた花が置かれており、"私"は気味悪く思いつつ、憤慨していた。花を置き続ける犯人を捕まえようと早朝に張り込みをしてもうまくいかず、"私"は歯がゆい思いをしていた。いつの日かを境に、数百人規模で"私"の家に人が集まりだし、神がいる家だと噂し出した。次第に、その人々は小銭や石を家に投げ入れたり、地面に平伏して何かを唱えながら頭を上げ下げしたりし始める。最初は宗教の集会だと他人事のように考えていた"私"だが、徐々に感情をなくしていく。白塗りの化粧をして、よそ行きの服を着て外に出ると、人々の群れが"私"を中心に動き出し、「お供え」と言いながら石や小銭を投げ続けた。"私"は気付かぬうちに神に近い「人間らしからぬ存在」になってしまったのだった。
 この小説で私が特に高揚感を覚えた部分は、家の外に大勢の人々がいて何かを唱えて群がっているという狂った状況の中、"私"が機械的に生活しているシーンである。人間と神の差が分からなくなりそうななんとも言えないズレを感じ、また同時に、ここまで自我を無くしてしまっている主人公を恐ろしく感じた。いたって日常的な文と「俗物に興味は無い」とでもいうような神らしい思考の文が交互に繰り出されるため、読者を不安な気持ちにさせる。この主人公は人間なのか、元々神だったのか、はたまた別の概念の象徴か。
 そもそも「お供え」とは、故人への贈り物や、神仏に供えるもののことだ。主人公の家にお供えが置かれているということは、主人公は既に亡くなっている人物という解釈をしたくなるが、実母や安西と会話していたり、掃除や風呂などの日常的な行為をしたり…やはり主人公は生きているとしか考えられない要素も多い。このどちらか分からない感じ、はっきり分からないが"私"という概念が曖昧模糊としている空間が気味悪く、また魅力的に感じるのが不思議でたまらない。
 p24の4行目「蕗(ふき)の葉の上に石ころが~(中略)いいように馬鹿にされている。私は思いきり力をいれて石を向い側のどぶへ蹴とばした。」とあるが、主人公が神に近い存在となった最後の方では、子どもに石をぶつけられても何も感じていなかった。淡々と状況だけが綴られていて、人間味が全くなかった。主人公の感情が失われていく過程がよく分かる。
 また、植物の描写(それも山にある植物の名前)が多く書かれていたことも、主人公の家の「人間が近寄りがたい感じ」を引き立てている。鬱蒼としている家の情景が、何かが宿っていそうな、廃墟化した神社のような不気味な感じを醸し出している。
 神が本当に存在しているかは誰にも分からないし確かめようがない。「人間」が創造し、「人間」が流行させ、「人間」が信仰し、「人間」が組織を作り、「人間」が概念を作る。「人間」が全てを動かすのなら「人間」=「神」なのだろうか?そういった、いささか哲学的な思考が堂々巡りしていることに気付いたら、それはもはや吉田知子の世界に見事に引きずり込まれてしまっている、ということなのだ。

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