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イタロ・カルヴィーノ「恐龍族」書評(1)

先週の4回生ゼミではイタロ・カルヴィーノ「恐龍族」を読みました。二人の評者のうち、まず成山美優さんの書評を紹介します。

イタロ・カルヴィーノ「恐龍族」(『レ・コスミコミケ』収録)

評者:成山美優

 この物語は、Qfwqfという人物が昔話を語るようにして話が展開されていく。恐龍族の生き残りである彼の昔話が、壮大なスケールでテンポよく進んでいく様子にどんどん引き込まれていった。
 荒涼たる高原の地で、彼は長い歳月を一人きりで過ごしていたが、永遠にその地に居続けることはできず、旅立って高原を降りていく。降りて行った先で、新生物の一群に遭遇し、恐れられると思い逃げ出すが、新生物たちは敵意を見せず、むしろ好意的に接してくる。彼らは実際に恐龍を見たことが無いため、自分が恐龍であることに気付いていないようだった。やがて、とある川のほとりにゆきついたが、そこでは新生物たちが巣をかまえて暮らしていた。材木の運搬の仕事する代わりに、そこにしばらく泊っていくことになった。
 新生物たちとの生活の中で、フィオール・ディ・フェルチェの兄、ヅァーンと格闘する場面があるが、その理由は主人公が恐龍であるかということではなく、結局はよそ者であるから、信用に値するかどうかというところであった。また、恐龍を見たという一人の老人の発言をきっかけに、村の皆で山に恐龍を見に行く場面がある。そこには巨大な恐龍の亡骸が横たわっており、それを見た新生物たちはひっそりと静まり返った後、いつものばか騒ぎに戻ってしまった。誰か一人でも亡骸から主人公に視線を移せば、その二人は全く同じものだと気が付いたはずだった。しかし彼らにとってその亡骸は、今では読み取ることのできない言葉を語るばかりで、これからはただ単に風景の一つを示すに過ぎないものとなるのである。
 主人公は物語の中で多くの新生物と出会っているが、誰一人として彼のことを恐龍だと思うそぶりを見せない。彼らにとって「恐龍」というものは遠い過去のものであり、想像することしかできない。伝聞によって、恐ろしい生物であるという恐怖だけが刻み込まれている。実際に私の目の前に恐竜が現れたとしても、それが本物であるとはとても信じることはできないだろう。また、「恐龍族は消え去っていくことによって、ますますその支配の領域を拡げている」という描写の通り、恐龍族はこれからも人々の記憶の中で永遠に生き続けていくだろう。我々の世界での「恐竜」と重なるものがあり、壮大な物語を感じさせられる作品であった。


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