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ジーン・ウルフ「取り替え子」書評(1)

先週分と今週分をまとめて更新します。まずはジーン・ウルフ「取り替え子」の書評です。二人の方に書いていただきました。一人目は山下綾花さんです。

ジーン・ウルフ「取り替え子」(『ジーン・ウルフの記念日の本』収録)

評者:山下綾花

 自分が子供の時の記憶を鮮明に覚えているだろうか。きっと「はい」と言える人の方が少ないと思う。楽しかった思い出だけではなく、嫌な思い出も鮮明に正確に覚えているのは心の健康上きっと良くないから、ストレスに耐えうるための機能として忘却と都合のいい改ざんがあるのだと思うと、人間の身体は実にうまくできていると実感する。自分の記憶が間違っているのか、世間の感覚がおかしいのか、何が真実で何が虚偽なのか。読んでいると頭の中をかき混ぜられるような感覚に最初は誰もが困惑し、二度、三度と読み直すうちにパズルのピースがはまって完成に近づいていく感覚を味わえるような作品だった。
 物語はとある覚え書きのはなしから始まる。主人公の「私」が朝鮮戦争で軍隊に所属していた時、捕虜交換の際も現地の中国に残った。その後自国に戻るも裁判にかけられ刑務所に入れられることになる。出所後職探しと子どもの頃の思い出に浸りに故郷のカッソンズヴィルへ赴くと、ヒッチハイクで「私」を拾ってくれた男は旧友のアーニー・コーサだった。再会に喜ぶ2人は昔のことをたくさん話し合った。アーニーは「私」が共通の旧友であるマリアと大喧嘩したことについて話しだしたが、「私」の記憶の中ではマリアではなくその弟のピーターとだった。どうやら記憶が食い違っているらしい。パルミエリ家のモーテルに到着するとパルミエリ家夫妻は「私」のことを歓迎してくれ、出会った当初は4歳だったポール・パルミエリも今ではすっかり好青年になっており、再開の話題に花を咲かせているとしばらくして目の前にピーターが現れた。ピーター・パルミエリ、その姿はまだ八つくらいだった。明くる日ポールとパパ・パルミエリと「私」の三人で、マイナー・リーグの試合を観に行った。ポールが席を外し、二人になったときパパはピーターの話をしだした。ある晩見知らぬ男の子が家にいたこと、ママが生まれたばかりのマリアに向かって彼をあなたのお兄さんであると言っていたこと、パパと「私」以外が誰もピーターのことを不審がらないこと、マリアの兄であったピーターがいつしか双子の片割れとなり、そのあとは弟になり、今ではポールの弟になったこと。翌日ピーターの記録を確認しようとクラス写真を見せてもらったが、写真に写っている人物と自分の記憶を照らし合わせても一致しなかったことに違和感を覚えた。その後入店した新聞社で「私」はこう語った。「聞いてください。昔、ピート・パーマーという男の子がいました。この町の生まれです。板門店で捕虜交換があったとき現地に残って、中国に向かい、繊維工場で働いていました。国に戻ってくると、刑務所に入れられました。———」まるで自分の過去を語るように。
 子供というのはときに大人よりも残酷なことをすると思う。大人は悪意をもって誰かを貶めることがあるが、子供は悪意なく何が悪いことか分からないまま非道なことをする。平気で虫を殺したり、弱いものをいじめたり、想像力がまだ及ばない子供は大人よりもある意味たちが悪い。石を結びつけた蛙を川に投げ込んだり、石で目を殴ろうとする子供たちの場面を見ていると、自分は過去に不道徳な行いをしていなかったか振り返って自責の念に駆られることになった。
 本編は8歳から成長しない少年をめぐって真実に翻弄される主人公とその周囲を描いたミステリー小説だ。読了した多くが直接的に何者かを描かれていないピーターという存在について疑問を抱くだろう。私は、主人公自身がピーターであり、子供のころの幻影を故郷に残してきてしまった存在、それがピーター・パルミエリだと思った。序盤でアーニーが主人公のことを“ピート”と呼び掛けている。英語圏での名前の省略で、ピートはピーターになる。つまりピート・パーマーはピーター・パルミエリ。新聞社で名前を変えたという発言とも辻褄があう。主人公の記憶がひび割れて崩れているようだったのは、ピーターとしての人格をまるごと故郷のカッソンズヴィルに置いてきており、話さないことはある種の罪という言葉から、そのことを責められるような思い出したくない過去として認識し、ピーターとしての記憶が自分の中で都合よく補完されているのではないだろうかと思った。今の「私」はピーターという過去を忘れないために誰かに語りつづけているのだ。
 多くの謎が残るもはっきり回収されるような伏線はなく、いささか腑に落ちない部分が多かった。主人公とピーターをどう捉えるのかは読者次第という感じがあり、読み応え十分とは言い難い作品だった。

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