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片瀬二郎「ミサイルマン」書評

今週は2本の書評を掲載します。まず柴田美朝さんの書評です。

片瀬二郎「ミサイルマン」(日本文藝家協会編『短篇ベストコレクション 現代の小説2020)収録)

評者:柴田美朝

日常と非日常

 日常とは何であろうか。日常というものは存在するのだろうか。存在するにしてもそれは本物と言い切れるのか。この小説で考えさせられたことである。
 ある小さな工場の跡取り息子である俊輔は期末と年度末が被り戦場となる納品日に、外国人労働者の一人ンナホナがいないことに気づく。事務員の末松さんと二人で寮に様子を見に行くと、ロボットの扮装のような恰好をしたンナホナが深刻な顔で「大統領から指令があった」という。俊輔が説教を続けようとしたとき、ンナホナは痙攣し始め、ついには空へ打ちあがった。末松さんが俊輔を引きずり込み、ンナホナを止めるためにトラックで追いかけだす。その車内で俊輔はようやくンナホナの出身国セヤナ人民共和国のミサイルマンについて知る。ミサイルマンは、優秀な訓練兵が採用され、脳内に回路と受信機を埋め込まれる。さらに肉体にも多くの兵装が移植される。引退後も兵装は解かれないため脳内の受信機に大統領からの緊急コードを受けたンナホナはミサイルマンとして出撃したのだった。そのまま、二人はンナホナを止めることはできず、10分もしないうちに町は跡形もなくなってしまった。
 このように、この小説では日常から非日常へすごいスピードで話が進んでいく。このスピード感が読者の邪魔をせず、面白いものであると感じさせることができるのは、小説内での日常と非日常の関係があるからだと考えた。
 例えば、日常にあるウィキペディアと非日常であるミサイルマン。俊輔が車内でミサイルマンを検索するまで、ミサイルマンは読者の中ではまだ現実味のない、それこそ俊輔のいうようにジョークでしかない。しかし、ウィキペディアでの検索結果を聞くと、一気に現実味を帯び、今まで同じ目線だった俊輔の常識を疑うようになる。つまり、日常で使っているウィキペディアというリアルが、ミサイルマンという非日常にリアリティを付加しているのだ。現実味を帯びると読者はより物語へ入り込みやすくなる。知らぬ間に、この小説のスピードに乗せられるのだ。
 また、日常にいる外国人労働者と非日常的な世界多発大規模攻撃の二つもまた、この小説のスピード感に一役買っている。日本では年々外国人労働者は増えており、日本の産業に欠かせない。しかし、悪徳斡旋業者や不法な労働環境、不当な待遇などが問題となっている。この小説内でも俊輔の言動から受け取ることができる箇所がある。それでも外国人労働者が減らないのは、母国で働くよりも給与が良いためである。ここで、世界多発大規模攻撃が関係してくる。攻撃された国として挙げられたのは先進国ばかりであった。先進国ではないがトルコも、近年成長が著しい国である。出稼ぎは先進国を中心に世界中で行われている。先進国ほど、働き手が不足しているためである。このように、世界多発大規模攻撃が非日常であっても、現実世界で問題となっている外国人労働者という日常が絡むことで、非日常感が薄れるのだ。言い換えると、日常と非日常の線引きが曖昧になる。
 この小説ではよい効果を出している、日常と非日常ではあるが、普段の私たちの生活ではどうだろうか。人間はすぐにわかりやすいように捉えようとする。しかも、その捉えた結果を疑うことはあまりない。考えた気になっているからだ。そのため、普段捉えている日常は本当に日常なのだろうか。非日常に縁どられた日常ではないのだろうか。逆に日常に縁どられた非日常なのか。私は、この小説で心に重しを抱えることとなった。


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