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村田沙耶香「街を食べる」書評(1)(評者:池田萌乃)

 今週の4回生ゼミでは、村田沙耶香の怪作「街を食べる」を読みました。子供の頃にツツジの蜜を吸ったり、山菜やよもぎを取ってきたり…といった受講生たちの思い出話にも花が咲き、楽しい読書会となりました。

村田沙耶香「街を食べる」書評(『現代小説クロニクル 2010~2014』収録)

評者:池田萌乃

 貴方は身の回りに生える植物を自分で収穫し、食したことがあるだろうか。私はYESだ。というのも小学生の頃、マンションの公園に生えていたツツジを摘んで蜜を吸った経験がある。厳密に言えば食してはいないが、まあYESでいいだろう。貴方はどうだろうか?この小説の主人公、理奈は長野県にある父の田舎で新鮮な野菜や山の野苺や葉を食した経験があるそうだ。そんな彼女には都会の野菜が生臭いものに思えるらしい。いくらツツジを吸ったことがある私でも、理奈の意見にはどうにも賛同できない。理奈の同僚である雪も「あんまり気にならないけどな」と彼女を否定気味だ。どうやら理奈は食にこだわりのある人間らしかった。きっと読んだ者の大半が彼女の事をそう思ったのではないだろうか。
 そもそも、食へのこだわりというものを持っていない人は少ないだろう。友達は海ぶどうに関して沖縄産以外のものは認められないようだし、私も缶コーヒーはあまり好きになれない。度合いはともあれ、人間思わぬところで食へのこだわりが存在するものだ。そう考えると、食べるという行為は個性に結びついてこないだろうか。私たちは食を通して生きるために必要な栄養とこだわりという名の個性を形成する“何か”を摂取しているのかもしれない。だとするならば、理奈の街に生えている蒲公英などの植物を自分で収穫し、食す習慣も食べるという行為を通して獲得された立派な個性なのかもしれない。その個性が善いものかどうかは不明だが。
 だが、少なくともその個性を人に押し付けるのは良くないことだ。物語のラストで理奈は、雪に街で採ったぺんぺん草のおひたしを田舎から送られてきたものだと言って、分け与えている。そうやって理奈は雪に自分のこだわりを、個性を、食べさせてはこちら側に来る日を待ちわびているのだ。そんな理奈のことを私は怖いと感じたが、思えば自分も同じようなことをしていることに気づいてしまった。それは食ではなく、ゲームの話だが、それでも私は理奈と同じく、対象が好きそうな要素を交えながら自分の好きなゲームをどうにかこうにかプレイしてもらおうとプレゼンしたことがあるのだ。理奈の行動原理はきっと私と同じで“自分の好きなものを理解してほしい”、“自分の好きなものを好きになってほしい”というものだろう。これが雪にゲームをプレゼンする話であれば、私は「分かる」で感想を締めくくることが出来たと思う。だが、その好きなものが食になった途端、ここまで誰かに恐怖心を抱けるとは思わなかった。自分に理奈を否定する権利は無いというのに。そこがまた不思議で怖かった。雪はこれからどうなるのだろう。気づかない間に理奈の個性を食した彼女はこのままゆっくりと生理感覚を失ってしまうのだろうか。どうにか気づいて、否定してほしいものだ。プレゼンしたゲームを「PS4持ってないし」と一蹴した友人のように。

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