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目取真俊「水滴」書評(1)(評者:竹中菜南子)

目取真俊の芥川賞受賞作「水滴」の書評を3人の方に書いていただきました。まずは竹中菜南子さんです。

目取真俊「水滴」(『現代小説クロニクル1995–1999』収録)

評者:竹中菜南子

 七十六年前、日本人は戦争を経験した。数えきれない犠牲者を出した一方で、戦争のつらい記憶を残したまま生きている人もいる。私たちが戦争を知るには戦争経験者からそのつらい記憶を伝えてもらうしかない。現代の小学生は修学旅行の行き先に広島を選び、千羽鶴をもって祈りを捧げ、戦争経験者にあの時の情景を事細かに説明してもらう。そうすることで七十六年に起こった最悪の状況を人々は忘れてしまわないようにしている。しかし物語の主人公である徳正はその記憶を改ざんし子供たちに伝えている。しかしある出来事で徳正は戦争で経験した忘れてしまいたい記憶を深く考えさせられることになる。この小説では生々しい戦争の記憶とそれに向かい合う主人公が描かれている。
 小説の舞台は戦争終結から50年ほど経った沖縄が舞台である。主人公の徳正は突然右足が大きく腫れてしまう。膨らんだ足の親指の先からは水が流れ出している。徳正の意識はあるものの体は動かせず、徳正の妻が介護をすることになる。足の先から滴り落ちる水は一時間でバケツをあふれるほどであり、なめてみても淡い甘味があるだけであった。しかし徳正のいとこである清裕が看病をしながらその水には不思議な力があることに気づく。髪の少ない肌にかければ毛が生えてきたり、水をかけた雑草だけ生い茂っているなど、生命を生み出すような力があった。夜になると徳正から出る水を求めて兵隊が現れるようになる。それは徳正が兵隊だったころ壕に置いていった仲間たちだった。兵隊たちは戦争で負傷し、亡くなった当時の姿で足から流れる水を一心不乱に飲み、徳正の前から立ち去る。水を飲んだ兵隊たちは少しずつ負傷した体を治しているようだった。そんな兵隊たちを見ながら徳正は自分が見放してしまった仲間たちのことを思い出し、五十年間ごまかしてきた記憶とこれから向かい合い続ける覚悟を決める。
 沖縄の方言とともに進むストーリーには徳正が経験した戦争での出来事や、その後の生活が描かれている。徳正は自分の経験を美化し、子供の前で戦争体験を講演していた。戦争を知らない子供たちにとっては徳正が話すことが事実であり、戦争の記憶をそういうものだと認識する。しかしそんなに簡単に戦争の話を語れるものだろうか。徳正にとって仲間を見殺しにしてしまったことや、自分だけ生き残ってしまったことは罪悪感や安堵など、口にはできない感情を持っているだろう。戦争の記憶から背を向けたいのに戦争を知らない私たちが「忘れてはいけない」、「風化させてはいけない」と記録に残し続けている。それは戦争経験者からは複雑な感情を抱くのではないか。私の曽祖父は戦争経験者で、戦地では食べるものがなく、生き残るために蛇や虫などなんでも口にしたという。当時小学生だった私は戦争について調べるという夏休みの宿題があり、曾祖父にもっと詳しく話を聞きたいと思った。しかし曾祖父もそのころの記憶を思い出したくないのか、話せるような雰囲気ではなかったのを覚えている。徳正は記憶の底に封じ込めたものを奇病を患うことで徐々に思い起こし、忘れないようにと決意する。やはり結局は酒を飲み、また曖昧にしたまま忘れようしている。しかし最後の描写では徳正が小さく咲いている花や青空に何かを感じ、涙を見せる表現がされている。それは徳正が生きていることや生命に対して、ポジティブな何かを感じ取ることができたということではないだろうか。
 我々が忘れてはいけないと考える記憶は誰かにとっては忘れたい記憶であるだろう。しかし戦争はもう二度と起こしてはいけないという記憶を残すためにはやはり私の曾祖父や徳正が語る体験談に頼るしかない。だからこそ戦争の経験を思い出したくない記憶だから曖昧なままにしておく、ということはしてはならない。それはいずれ未来に大きな影響を及ぼす記憶だから。

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