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吉田知子「祇樹院」書評(2)(評者:小家康寛)

吉田知子「祇樹院」 書評(『お供え』収録)

評者:小家 康寛

記憶と存在証明

 「我思う故に我あり」、世の中の全てを疑おうとも、疑いを向けている我自身の存在は疑う余地のない事実である、とする有名なフレーズである。しかし我々人間とは周囲との関係や記憶によって自らの存在を規定する生き物であり、私自身が存在するその事実は疑いようがなくとも、人間としての個の存在を認めてもらうためにはむしろ「他思う故に我あり」、という言葉にはならないだろうか?吉田知子の「祇樹院」は、このような人間を人間たらしめる要素について今一度問いかけられる短編小説である。
 この小説は、「私」と雪乃という二人の女性が自動車で道を走っているところから始まる。吉川の鰻の味が落ちた話をしながら、想定の倍以上の時間をかけ雪乃の夫の親類の大野の家へ向かう途中、心当たりのない土地にも関わらず、小さな川や製材所の火事とその跡の空地などについてを唐突に思い出す。近寄ってはいけない、戻らなくてはと思いつつも、大野が口にした「祇樹院」を知っていること、そして今どうなっているのかと言ってしまい、そこに向かうことになる。そしてやはり祇樹院を知っているという事実確認ののち、そこにいた女に「あんたがうちの子を殺した」と言われ、逃げようとする。入り口で待っている雪乃に「この人おかしいのよ」と訴え、帰ろうとするも、雪乃は車に乗り込む前に知らない女になっており、そのまま「私」を無視して走り去ってしまう。
 この小説において、「私」が心当たりのない土地にはっきりとした記憶を持っているシーンや、蛇岩と呼ばれている岩がある川を知っているシーンなど、違和感が頭をもたげる箇所があり、その違和感がそのまま現実を塗り替えてしまうような最後を迎える。この違和感を生み出している「私」の記憶が、果たして本当に「私」自身のものなのか、またそうであった場合の「私」のルーツはどこにあるのだろうか。
 私は初めに人間が人間としての存在を地に足つけるためには周囲との関係や記憶が必要である、と述べた。であるならば、「私」から抜け落ちていた記憶が戻った時、またそれにより新たな事実が見え、関係性が更新された時、それはこれまでの「私」と同一人物と言えるだろうか?あなたと誰かとの記憶が失われ、関係性が消失した時、それでもあなたたちは知人なのだろうか?
人間は強いストレスなどによって記憶に障害をきたすことがある。それは記憶の欠落でる場合もあれば、捏造の場合もある。自らの記憶すら信じられるものではなくなった時、人は何によって自らを規定するのかを考えさせられる内容だったように思う。

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