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アーシュラ・K・ル・グィン「オメラスから歩み去る人々」書評(2)(評者:森本和圭子)

アーシュラ・K・ル・グィン「オメラスから歩み去る人々」(『風の十二方位』収録)

評者:森本和圭子

 この作品の舞台は「オメラス」という架空の世界である。美しい街並みに、穏やかな気候、明るく、しかし単純ではない人々、またそこに身分の上下はなく、芸術や学問も高みに達しているとされる。かと言って、いわゆる反テクノロジー的な、あるいは禁欲的な世界というわけでもない。オメラスは心やましさのない、読者の想像する理想郷なのである。
 こうも完璧な理想郷であるオメラスだが、実はこれは、ある契約に基づいたものである。それが何者との契約なのかは語られないが、人々の幸福の代償に、オメラスのとある建物の地下室には、知的障害児であるとされる一人の子どもが閉じ込められている。部屋には窓もなければトイレもなく、子どもはしょっちゅう排泄物の上に座るので、尻やふとももは腫れて膿みただれている。子どもは大体ぼんやりと座っているが、自分の両親や、外の生活のことも知っているので、時には「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」と叫ぶ。しかし誰もそれに答えない。それどころかこの子どもにひとことの優しい言葉さえかけてはならない。さもないと、オメラスの幸福は全て失われる、というのが「契約」なのである。
 オメラスの住人は、物事が理解できる頃になると皆このことを知らされる。そのわけを全員が理解しているわけではないが、とにかく、彼らの幸福や健康、豊作と温和な気候までが、すべてこのひとりの子どものおぞましい不幸におぶさっていることだけは、みんなが知っている。最初は誰もがショックを受けるが、やがて、その現実を受け入れるようになる。
 しかし、この閉じ込められた子どものことを知らされ、その姿を見た後、まれに、オメラスから姿を消してしまう人々がいる。その人々は、この子のことを知った直後、あるいは、それから何年も経ったある夜、身の回りのものだけを持って、静かに、オメラスから歩み去っていく。オメラスの周りには、一面の荒野が続いていて、そこを去る人々がどこへ向かうのかはわからないが、彼らは、自分の行く先を知っているかのように、確かな足取りで、この国を去っていく。
 オメラスのあらゆる生きものの美しさと優雅さのすべてを、そのたった一つのささやかな改善とひきかえるか、何千何万の人びとの幸福を、ひとりの幸福の可能性のために投げ捨てるか。作中そんな選択肢が提示されるが、実社会でも、当たり前の様に手に入れている食料、資源、教育。そういったものは、全ての国の人々が同じ様に手に出来るものではない。そして私たちはオメラスの人々がそうであるように、その誰かの犠牲がある事を知っているだけでなく、その犠牲が私たちにとって必要な犠牲である事に誰もが気付いている。だからといって、私たちはこの暮らしを捨てる事が出来るのか。出来はしないだろう。どちらの選択が正しいか言う判断はできないが、しかしオメラスの社会に疑問や反発心があったとしても、それを許さない人のほうが多数派であることは間違いなく、そしてそれが正義とされる。
 この物語はオメラスから去った人のことは詳しく描かれていない。しかしタイトルは「オメラスから歩み去る人々」なのである。私たちの多くは、理想を求め、探し、そして理想を思い描く。オメラスは、そのような理想郷、ユートピアとして扱われているが、何かを犠牲にして最大の幸福を求めるのではなく、個人の幸福を求めることができるという点でオメラスという社会は、ユートピアのようなディストピアであるのに対し、オメラスを去った者が辿り着く先は、ディストピアのようなユートピアなのではないだろうかと感じた。
 オメラスがどういう仕組みで繁栄をしているかを知ったうえで、どう行動するべきなのか、どういう選択をするのが正しいのか、また実社会と重ねて考えさせられたりと、読み終えた後になって、何度も何度も読者に問いかけてくるような作品であった。

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