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安岡章太郎「悪い仲間」書評(1)(評者:柴田美朝)

先週の4回生ゼミでは安岡章太郎の「悪い仲間」を読みました。70年近く前の作品ですが、現代の若者にも通ずるものを感じ取った受講生が多かったようです。

安岡章太郎「悪い仲間」書評(『群像短篇名作選 1946〜1969』収録)

評者:柴田美朝

魅力

 魅力を感じること、感じる部分は人それぞれである。しかし、基本的には自分にないものを魅力的だと感じるのではないだろうか。また、感性豊かな若者は様々なものを日々刺激として吸収し生活していることを感じた作品である。
 話の舞台は戦時中の日本である。主人公の「僕」は夏休みに朝鮮出身の藤井高麗彦に出会う。「僕」の藤井高麗彦に対する第一印象は最悪だったが、徐々に二人は打ち解けていった。ある日、二人はレストランで食い逃げをする。その食い逃げは、「僕」にとって冒険的であり、藤井高麗彦に魅了されるきっかけとなる出来事になった。夏休み期間中、藤井高麗彦から受けた衝撃を「僕」は実家から帰ってきた倉田真悟へ、同じように与えようと行動した。だが、ある日不意に藤井高麗彦と倉田が偶然出会い、三人は仲間になった。藤井高麗彦が二人に与える影響は大きく、本人が京都へ帰った後でさえ、二人は藤井高麗彦を想起し模倣した。その間、日本は新体制を整え始め、日常生活に戦争が入り込んできた。厳しくなる取り締まりに対し、初めはその非日常を楽しんでいた二人であったが、そのスリルにもなれてしまい日常への張り合いをなくしつつあった。そんな二人に、藤井高麗彦から学校を退学し、さらに病気にかかり朝鮮に帰るという手紙が届いた。帰郷する前に一度東京へ来た藤井高麗彦に「僕」は会うことなかった。一度は学業に専念するように見えた倉田であったが、家から貴重品や現金を持ち出しどこかへ消えてしまった。「僕」もまた藤井高麗彦への執着と倉田への友情を捨てたのであった。
 この話では「僕」が藤井高麗彦に対して「女」を見る場面がある。この「女」は性別的な女ではなく、「僕」が捉える「女」であると考察する。「僕」は女を現実のものとは考えられてはおらず、妄想の対象としていた。実際には同じ世界にはいるが大きな隔たりを感じていたのだった。その隔たりを藤井高麗彦にも感じた「僕」は彼に「女」を見出したのだ。
 その隔たりとは「魅力」だと考える。藤井高麗彦と「僕」を取り巻くものは全く違うものだった。軍人の父を持ち、女中のいる家に住み、大学へ通う「僕」。朝鮮から日本へ勉強しに来ており、兄のアパートに一人暮らしである藤井高麗彦。この差は普通なら「僕」を優勢にするものであった。しかし「僕」は上位階級ではない藤井高麗彦の生活や汚らしい身なりや振る舞い、すべてに魅力を感じていた。部屋や衣服を汚したり、家に反発したりする場面は藤井高麗彦の世界へ近づこうとしている様子が見て取れる。この隔たりは自分には困難な世界であり、魅力的に感じたのだと考える。
 しかし、話の後半で藤井高麗彦が朝鮮へ帰郷することが手紙で知らされた時に、「僕」の彼に対する魅力はなくなってしまった。魅力ではなく、そうはなりたくないという同情、そして、幻滅の気持ちに代わっている。これは、藤井高麗彦は何事に対しても勝者であるはずなのに、学校に病気に負け、郷里へ帰るという選択をしたことが「僕」の憧れを消し去ってしまったのだった。
 この小説では、細かな情景描写が読者を「僕」の気持ちへつないでいると考えた。初めの藤井高麗彦に対する嫌悪感から徐々に芽生える憧れなど手に取るようであった。しかし、描写が細かいため実際に思い浮かべると、これを模倣する二人への抵抗感も同時に抱くことができた。また、どれだけ時代が変わっても子供は家や親の魅了から解き放たれたときに、反抗への道へと走るのだと感じた。


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