見出し画像

村田沙耶香「変容」書評

今週1本目の書評は山田瑠菜さんです。

村田沙耶香「変容」書評(日本文藝家協会編『短篇ベストコレクション 現代の小説2020)収録)

評者:山田 瑠菜

価値観の主成分は自分自身?

 自分自身の価値観をしっかり自分で決められると断言できる人間はおそらく数少ないだろう。大多数の人間が意識せずに時代の風潮や流行、社会情勢に流されているように私は思う。思えば、コロナ禍をはじめとする様々な社会の変化に知らず知らずのうちに価値観を変えられてきた。そこに自分の意思はあるのだろうか。村田沙耶香の『変容』はそんな転々とする時代に生きる私たちの価値観を、今一度考えさせてくれる小説である。
 主婦である主人公の川中真琴は、母親の介護を終えて近所のファミレスでパートとして働くことになった。大学生の高岡と雪崎と共に働く時間を通して、どうも世間から『怒り』が消えていることに気がつく。さらには夫や、大学時代の親友である純子まで『怒り』の感情が消えたというのだ。真琴はその事実を受けて、「世間から遮断されているうちに、自分だけ変容しそびれてしまったのかもしれない」とおぞましく感じた。
 純子との会食の際、真琴は、精神のステージを上げるための交流会への誘いを受ける。純子によれば、『怒り』を持っている人間は既に時代遅れで、精神のステージが低すぎるのだという。真琴はまたしても『怒り』を堪えつつ、純子との学生時代を思い出し、なぜ私も一緒に変容させてくれなかったのかと心の中で嘆いた。
 真琴は、大学時代のバイト先の上司で、常に怒り狂っていた五十川という女に会う事に決めた。やはり五十川は相変わらず怒っていた。真琴は五十川と『怒り』を共有することがとても快感だった。真琴と五十川は、純子の紹介した交流会に乗り込み、人々に『怒り』を思い出させることを決意する。
 その交流会で「まみまぬんでら」という新しい言葉が生まれていることに真琴は動揺するが、同時に自分が少しずつ変容していることに気がつく。対する五十川は、社会の変容に抵抗する同志のはずの真琴が、あっさりと変容してしまっていることに呆然としていた。五十川は最後まで周囲に染まらず、そして真琴は今まであれほど抵抗していたのに、世間の人格のスタンダードモデルになってしまったという結末だ。
 この小説の世界観は、社会的な例でいえば、情報通信機器(PCやスマートフォン等)が圧倒的なスピードで普及し、私たちの生活に不可欠なものになったことや、新型コロナウイルスによる生活様式の急激な変化に類似するものがある。身近なものでいえば、流行語が多数のメディアを通して爆発的な速さで広まることや、有名人のメディアでの炎上問題も例に挙げられる。そういった社会の変化に、世間の人々はたびたび価値観を少しずつ変容させて生きてきた。
 この物語の趣旨は、「多数派に属していたい人間の性」というものを読者に俯瞰的に見せようとしているところにあると私は考える。「他人と異なる」ということは、それだけでなぜか不安になる力を持っている。その力に呑み込まれて、自分の気持ちに嘘をついてしまった経験はないか思い返してみてほしい。そんな激動する時代だからこそ、自分の真意を偽ることなく、いろいろな価値観を持つ人々がいることも忘れずにアイデンティティを大事にして生きてほしいという著者のメッセージが込められているのではないか。
 また、真琴は元々怒りっぽい性格であったと書かれていることから、周りに影響されにくい人物に見えるが、P.647〜655の純子との会話や、P.672〜679の五十川との会話を見てみると、本音を抑えてとりあえず相手に合わせるという消極的な面も持ち合わせていることが分かる。この消極的な面は、「大衆」のマイナス面の人格を表していると考察する。要するに、自分の意思が弱く、受け身で、簡単に世の波に押し流されてしまう人を主人公の側面として書くことで、そのような人への風刺を隠喩しているように思える。
 ここで666頁の夫の言葉について考えたい。

大丈夫。僕たちは、容易くて、安易で、浅はかで、自分の意思などなくあっという間に周囲に染まり、あっさりと変容しながら生きていくんだ。自分の容易さを信じるんだ。(666頁)

 この言葉から、夫は人間の容易さを自覚した上で変容を受け入れているとみられる。私にはどうもそれが引っかかった。気味悪く感じるが、夫は利口に変容できる人間なのだろう。おそらく現実のこの世界では、真琴のように自分が変容していることに気づかない人間と、夫のように変容を自覚している人間と、五十川のように周囲に染まらない(あるいは染まれない)人間とのおよそ3種類に分かれる。3種とも間違っていることはない。思想も環境も1人1人が異なるため、一概にパターン化することは不可能だ。しかし、登場人物全員が全体的に「哀れで浅はか」という風に描かれているため、人間の本質はネガティブなものなのかもしれないが、そこが人間の愛おしい部分でもあると私は思う。いっそそのネガティブな面は社会のせいにしてしまったほうがいいのかもしれない。そのような矛盾した思考や感情を抱かせるのがまさに村田沙耶香ワールドなのだ。
 真琴が多数派に呑まれてしまった様子は、きっと自分の周りでも当たり前に起きうる光景なのだろう。今、まさにこの瞬間、自分も少しずつ変容しているということを思い知らされているようで、不気味で仕方がなかった。また、変容の兆しが“目に見えない“ことがより一層恐ろしく感じる。そのような変容の脅威は、いつでも私たちのすぐそばに潜んでいる。これは、ただのフィクションとして終わらせるべきではない。この小説を読み終わった今の私には、そう思わずにはいられないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?