泉谷しげるearly daysの巻その2。
・泉谷しげる「わが奔走」(ロッキング・オン)
特にあくまでも個人的な想像なんですが、70年代前半の泉谷しげるさんに古井戸と、RCサクセションは活動する上で全く違う部分があったんだろうなと思ってしまうのです。
・「ロック画報 10」(ブルース・インターアクションズ)
RCは東芝EMIからレコードを出していて、ホリプロに所属していたことはかなり大きいですよね。
彼らのファースト・アルバム『初期のRCサクセション』はメンバーの承諾を得ずに、それこそ勝手にドラムスなどをオーヴァー・ダビングされてしまった(サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」と近い方法ですね)のは、ディレクターの(元ザ・リガニーズ、後にチューリップなどを担当する)新田和長さんの意向によるものだったことがまず一番に挙げられます。
これにより、RCのバンドとしてのグルーヴがダビングによって失われてしまったことは否めません。
今になって好意的に捉えるとするなら、RCは単なるフォーク・グループではないことをダビングによって強調したかったのかな、と。
そして、ホリプロに所属していたザ・モップスと井上陽水さんとのツアーを組まれます。
これは悪いことばかりではなく、陽水さんと親交が深まったり、アルバム『シングル・マン』の編曲を担当するザ・モップスの星勝さんと出会うことになったのでした。
一方、泉谷さんと古井戸には、それぞれ「春夏秋冬」と「さなえちゃん」というヒット曲が生まれ、泉谷さんと古井戸に佐藤公彦(ケメの愛称で知られてますね)さんでツアーが組まれます。いつになっても終わらないツアーだったと泉谷さんが語っています。
このツアーで仲井戸麗市さんはストレスを溜めてしまって、「さなえちゃん」をライヴのセットリストから外してしまったり、サングラスを更にマジックで塗ったりしてしまいました。
そして、テレビ出演の際、「さなえちゃん」の歌詞を改変して歌ってしまうという形で爆発したのです。
しかも、それが生放送だったので、もう一人の古井戸のメンバー加奈崎芳太郎さんや関係者は真っ青に。
真っ直ぐ帰ろうとした仲井戸さんに「お前よくやった!」と唯一声をかけたのが泉谷さんだったそうです。この件で仲井戸さんが泉谷さんを見る目が変わったらしいですね。
加藤和彦さんはミカさんや高中正義さん達とサディスティックミカバンドを結成し、70年代半ば泉谷さんのアルバムの演奏をほとんど担当しています。レゲエを取り入れたり、ハードな演奏の曲もあって、フォークの枠にとどまらなくなり始めた時期であります。
RCはセカンド・アルバム『楽しい夕べ』をセルフ・プロデュースとして発売したのですが、なかなか難しい反応だったのでした。
時期を前後して、ツアーを一緒に回っていたザ・モップスが解散したり、井上陽水さんが大ブレイクしてしまったのです。
陽水さんがホリプロから無理やりに近い形で独立することになった結果、RCは着いて行くことができず、言葉はよくないのですが、飼い殺しとなってしまうのでした。。
サディスティックミカバンドに話を戻しますと、ドラムスにつのだひろさんに替わって高橋幸宏さんが、ベースに小原礼さんが参加します。
その時期だと思うのですが、小田和正さんがミカバンドのファースト・アルバムでキーボードを弾いたこともあって、オフコースへミカバンドに参加しないかというオファーがあった模様です。
結果として断るのですが、これはミカバンドに入った場合の鈴木康博さんのことを考えてなのでしょうね。勿論、デビューしたからには結果を出したいという気持ちもあったはずですが。
そして、オフコースは杉田二郎さんと行動をともにすることになりました。
・オフコースファミリー「はじめの一歩」(サンリオ)
吉田拓郎さんはCBSソニーに移籍し、「結婚しようよ」や「旅の宿」などヒット曲を出し、ツアーは柳田ヒログループが演奏を担当していますね。
アレンジャーに瀬尾一三さんを迎えたり、現在の活動に続く音楽的な足場が固められた時期だったのではないでしょうか。
拓郎さんはプライベートでも激動の時期でしたが、ここでは触れません。興味ある方は自分で調べてくださいね。
そろそろフォーライフ・レコード設立の時期になりそうなので、今日はこの辺にしておきますか。
明日はフォーライフ設立時期にはRCやミカバンドはどうだったのかも含めて書く予定です。
多分、5回位この話は続きます。って終わるのか?
ではまたー。
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