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【小説】やさしいレンズ④

(①) (②) (③)
「こんばんは、どちら様でしょうか」
「ここにうちの優人がいると、ご近所の方から聞いたのですが」
「はい、いますけど、何か……」
 まだ喋り続けているにも関わらず、カオリさんは僕を押しのけて玄関に入ってきた。
「優人!出てきなさい!」
 キーン、と甲高い声が廊下に響いた。しかし返事はない。いるはずの母までが、息を潜めているようだった。
「ちょっと失礼します」
 そう言い置くと、カオリさんはヒールの高いパンプスをさっさと脱いで、返事も聞かずに上がり込もうとした。僕はとっさに彼女の腕をつかんだ。振り向いた顔から、不機嫌が伝わってくる。しかし僕はひるまなかった。
「勝手に入られては困ります。用があるなら、伝えますよ」
「……それじゃあ、今すぐ帰ってきなさいって伝えてちょうだい。こんなに遅くまで何してるの、って」
「えっ……あの、優人君から聞いてないんですか?」
「何を?」
「いや、その……」
 誤魔化しているのではなさそうだった。僕は、ちょっとお待ちください、と足早に台所へ向かった。
「ユウト、ちょっと来い。カオリさんが来た」
 ユウトは何も言わず、動こうともしなかった。仕方なく、腕を引っぱって無理に連れ出そうとする。
「やだっ!」
「大丈夫だって」
「やだ!やだ!帰りたくない!」
 抵抗するユウトを廊下に連れ出して、カオリさんの前に立った。ユウトは目に涙を浮かべ、僕にしがみついた。腕を伸ばす彼女を、しかし、僕は遮った。
「ユウト君は、この通りどうしても帰りたくないそうです」
「……だから何?」
「ここに泊まる許可をくれませんか」
 カオリさんの表情が、いっそう険しくなった。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした。僕の責任です。本当にすみません」
「違うっ、マサ兄は……」
 頭を下げる僕の後ろで、ユウトが身を乗り出そうとした。が、僕はそれを制し、続けた。
「でももう夜も遅いですし、今日一日だけ、ここに泊まらせてあげてくれませんか。わがまま言ってすみません。でも、どうかお願いします」
 彼女は顔を曇らせたが、泣く寸前のユウトを見て、諦めたように吐き捨てた。
「今日だけよ」
「ありがとうございます」
 僕がもう一度深く頭を下げるのに合わせて、ユウトもぺこりとおじぎした。
 ふと、彼女の語尾が震えていた気がして顔を上げると、振り向くカオリさんが閉まるドアの隙間から見えた。その表情が一瞬母に重なって、どきりとした。いつだったか僕が朝食を食べずに家を出たときの、あの顔だった。ドアが閉まると、ご飯冷めちゃうよ、という母の声がした。

(つづく)

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