見出し画像

コンサルタントも学びたい『取材・執筆・推敲』

古賀史健さんの『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』を読んでいます。

本書はライターをはじめ「書くこと」を仕事にする方に向けた形を取っています。

ですが、「書くこと」に限らず他人のために何らかのアウトプットを「創作する」すべての人に学びがある本なんじゃないかな、と思いました。

コンサルタントも、プレゼンテーションや提案をアウトプットするという意味で、広義には「創作している」と言えるかもしれません(ちょっとニュアンスが違うかもですが・・・)。

少なくとも私にとっては、コンサルタントの仕事をする上で発見と学びの連続だったので、本書を通して考えたことを少しご紹介したいと思います。

討議会は「コンサルタントがしゃべる場」なのか?

本書はタイトルの通り「取材」「執筆」「推敲」の順番で構成されています。

私が特に印象的だったのは「取材」の章なので、このnoteでは「取材」の内容だけ述べていきます。(他の章も素晴らしいです)

まず目に留まったのは「取材を面接にしてはいけない」という言葉

面接試験は、面接官が聞き手となって語り手を評価する場であり、語り手は身構えてしまいます。このように、聞き手の態度はとても重要。本書ではよい聞き手であるための心構えが語られていきます。

たとえば次のような記述があります。

「次になにを言うか」を考えている人は、相手の話をほとんど聞いていない。自分のことであたまがいっぱいで、早くおれに投げさせろ、とさえ思っている。キャッチボールでありながら、実際には相手のボール(ことば)を受け取っていないのだ。

ここ部分、コンサルタントとしてはドキリとしました。

コンサルタントがクライアントと議論する場では、プレゼンテーションなどの形でコンサルタント側が考えを持参することが多いです。そこでいかにシャープな論点設定と仮説を持っていけるかが勝負どころだったりします。

しかしながら、そこに固執すると、自分のプレゼンに必死で「相手の話を聞いていない」状態になりやすい。特に若手コンサルタントはそうだと思います。(私もそうでした。今でもそうかもしれません)

TEDなど不特定多数に向けたプレゼンテーションとは違い、コンサルタントのプレゼンテーションは相手がいる対話の場であることが多いです。

これは、相手の関心事や、ほんとうの論点を探るためのインタラクティブな場です。そのためには、議論を交わすだけでなく、相手の声色や目線まで観察することも求められます。

なので、クライアントとの議論をコンサルタントが熱弁をふるう場にしてしまうのは、もったいないと私は思います(そういうスタイルが求められる場があるのも確かですが)。

ボストン コンサルティング グループで日本代表を務められた杉田浩章氏の著書『プロフェッショナル経営参謀 』では、異論・反論が出ないミーティングは意味がないと説かれています。

自分が示したコンテンツに対して、経営層の誰からも異論・反論が出ることなく内容が認められた。そんなミーティングを「成功だった」と評価していないだろうか。
そもそも何のために経営層とミーティングをするのかといえば、議論を経て変化を生み出すためだ。
議論が深まった結果、最初に想定していた仮説が別の仮説に変わった。あるいは、議論する課題のレベルが引き上がった。さらには、今まで隠れていた真の論点が見えてきた。
このように、「ミーティングの前と後でどれだけ大きな変化が生まれたか」が重要なのである。

コンサルタントが自分の考えを投げかけるのも、本来はインタラクティブな議論を活性化するための一手段にすぎないのであって、自分が語る・説得することが目的ではないはず。コンサルタントは、自分がしゃべるためのプレゼンテーションノウハウを学ぶ以上に、「取材」の心構えを持つことが大切かもしれません

仮説思考の落とし穴

「取材」に関して、次の記述も気になりました。

脱線を許さず、予定どおりの質問をして終わるだけの取材は、企画書を超えない取材だ。もっと言えば、自分(ライター)を超えない取材だ。
取材を「原稿の素材集め」と考えるライターは、自分でも気づかないうちに傲慢になってしまう。相手の話に耳を傾けながら、ずっと「この話は使える」「この話は使えない」の評価・判断を下し、使えない話については文字どおりの馬耳東風になってしまう。

これらは、いわゆる仮説思考を誤って使わないために重要な考え方だと思いました。

仮説を立てたらそれを検証しにいくわけですが、立てた仮説に固執する必要は全くありません。むしろ、立てた仮説が違っていればどんどん捨てることが求められます。

間違いをどんどん潰すことで、正解に近づくことができる。そのためには、むしろ「仮説は捨てるために立てる」くらいに捉えるほうがいいと思います。

このように文章で書くとあたりまえなのですが、実際には立てた仮説をどんどん捨てるのはやっぱり難しい。がんばって考えた仮説は捨てたくないので、正しいと立証したくなるものだと思います。

でも、これは「企画書を超えない取材」と同じだと思うのです。

仮説検証的な情報収集は、決められた問いに対するyes/noの判断には近道です。

しかしながら、noだった場合に新しい仮説を立てたり、そもそもなにを考えるべきか(=論点の仮説)を考えたりする場合には、仮説検証の外側の情報も重要です。これは、企画書では想定しなかった情報が思わぬ場面で力を貸してくれることに似ていると思います。

仮説を持ってインタビューや討議会に臨むのは基本動作です。でも、仮説を立証する材料集めだけにインタビューや討議会を使ってしまうのは、(プロジェクトの性質や場の設定にもよるものの)もったいない場合が多いと思います。

web検索はもちろん、近年はエキスパートインタビューなどの情報収集サービスが充実してきているので、効率的なyes/no判断だけであればコモディティになりつつあると感じることがあります。

その先に、いかに新しいアイデアを発展させられるか。そのためには「企画書を超える取材」の心構えで外の世界(特にヒト)と接するのが基本だと思います。

「第三者のエゴ」になっていないか?

以上の話はいずれも、第三者が「自分の言いたいこと言う」を目的化していないか?を自問させられる内容だと感じました。

コンサルタントはもちろん、もしかすると他のアドバイザー業や、広告・PRの分野など、第三者として企業に携わる多くの人に当てはまるかもしれません。(他の仕事のことはあまり知らないので見当違いなことを言っていたらごめんなさい)

たとえば、スタイリストはお客さんがいちばん魅力的に見えるスタイリングを提案することが仕事です。もし、スタイリストがお客さんを「マネキン」にして、自分のやりたいファッションを表現しにいったら、それはもう「よき第三者」にはなり得ないと思うのです。

もちろん、お客さんと一緒によりよいものを創り上げるためには、第三者の側にも強い価値観や意思が必要です。

でも、それを自己表現のために押し付けるのは、言葉を選ばずにいえば、自分のやりたいことのためにお客さんを利用しているだけ。いわば「第三者のエゴ」になりやすい。この点は、第三者は相当気を付けなければいけないと思います。

第三者の強い価値観や意思は、相手のためにあるもの。第三者であるということは、その距離感が難しく、けれどうまくはまったときには大きな価値を発揮するものだと思います。

いろいろと偉そうに書いてしまいましたが、自分はできていると言うつもりは全くなく、常に自問しなければと感じました。

冒頭で述べた通り、以上の話はすべて「取材」の章、しかもその中のほんの一部の話です。他にも自分の胸に手を当てて考えたくなる内容の連続でした(もう何本かnoteが書けそうです)。ご興味を持たれた方は、ぜひ手に取ってみてください。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?