詩人の面影

 緑の垣根にかかった青い看板が、こちらへ、と指し示す。車一台通るのがやっとの舗装もされていない細道を百メートルほど進むと、家々の角にそれはあった。江戸時代の古民家を改装した、一見して普通の家に見えるそれが目的の店だ。

 松の木のアーチをくぐり、引き戸を開けると、左手から土間の中央にずらりと本が並ぶ。ここでは北原(きたはら)白(はく)秋(しゅう)の詩集をはじめとした彼の作品――しかも復刻版などの珍しいものをメインとした古い本を取り扱っている。すこし埃っぽい、昔の図書室のような匂いがした。

 正面のショーケースの中には手作りのケーキが並び、「今日のコーヒー」は地元のコーヒー店のものを使っている。レアチーズケーキで、とマスターにセットを注文し、振り返って靴を脱ぐ。そこはまるでワンダーランドだ。

 日本家屋の高い天井の下、畳の上に並んだ、大きさも厚さも色もさまざまな本。調律師の絵本、切り絵で彩られた宮沢賢治の物語、有名な外国文学、もちろん白秋やほかの詩人の歌集――座席を取る前にまずそこで足を取られた。すぐそばなのに名残惜しい気持ちで窓際の座席に腰掛けると、板張りの床がきしんで音を立てる。奥に座敷もあるが、あの席は友人と来たときのためにとっておこう。

 庭は緑であふれ、降り注ぐ陽光が白く、淡く黄色に輝く。車の音は遠く、すずめの会話と木々のささやきばかりが響く。店の名に違わない風景がそこにあった。ゆったりと流れる音を聴いていると、時間から解放されていくのがわかる。

「揺籃(ゆりかご)のうた」「待ちぼうけ」などの童謡が多く知られている白秋だが、その詩集は実は仄暗い。裕福だった子ども時代の、殺してしまった金魚、没落していく家、文学に埋没してドロップアウトした中学、東京で出逢った人妻との道ならぬ恋――白秋という偉人の見た闇がそこにある。天鵞絨(びろうど)のように、万華鏡のように、耽美で狂おしい言葉が並んでいる。

ふと思い立って一冊の本を取りに行った。「邪宗門(じゃしゅうもん)」。そっと唇に音を乗せた。

――空に真赤(まっか)な雲のいろ。
玻璃(はり)に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。空に真赤な雲のいろ。――
空に真赤な雲のいろ。――

気づけば、白秋が横にいた。穏やかに微笑み、あのコートを着て、故郷を見やる姿があった。

 白秋に抱かれた田舎の片隅、コーヒーと本の時間が織りなす店は、もしかしたら詩人が導く心の隠れ家なのかも知れない。

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