青東風吹いて
今年は三年ぶりの花火大会。
他所に漏れず、もろもろの心配はあるけれど、開催に漕ぎつけた主催者側の人間としては、たいへんうれしいし、毎年有無を言わさず割り振られる炎天下での観客整理もはりきってしまう。
しかし、デニムのポケットに入れておいたペットボトルの水はもうほとんどお湯に近い。
びゅうっと風が通り過ぎるけれど、蒸し暑さは日が高くなるにつれ、増していくばかりだった。
「はああ、あっつ」
思わず声を出すと後ろから聞き覚えのある笑い声が聞こえた。振り返ると同期の富樫と後輩の本間が一緒にこちらへ向かってくる。
本間はわたしと揃いの花火大会のTシャツとバケハなのに、富樫はアームカバーをしてバケハの上にはおっきな麦わら帽子まで被り、完全なる日焼け対策。透き通るような白い肌は、紫外線に弱いんだと以前話してくれたっけ。
ふたりはそれぞれクーラーボックスが載った荷台を押していた。
「んな大声出したらお客さんが驚くだろ。職員なんだからびしっとして」
「だって、暑いんだもん」
「だもんって、こどもか」
「ふたりとも相変わらずですねえ」
富樫とわたしは課長にオセロと命名された名物コンビで、ことあるごとにわたしたちのやり取りを聞いている本間がそう言って笑った。さすがに大人気なかったか、と恥ずかしくなり話題を変える。
「もう交替の時間だっけ」
「いや、おれらは配給係。ほら、経口補水液持ってきた」
富樫は荷台のクーラーボックスからペットボトルを取り出し渡してくれる。本間は少し気遣わしげに首を傾げた。
「熱中症とか大丈夫です?」
「うん。まあ、暑いのは慣れてるし」
高校時代ソフトボール部だったわたしは夏の暑さは得意中の得意だ。それはいまだに浅黒い肌が証明していて、ふたりも知っているはず。
「過信はするなよ」
「ありがと」
「じゃあ、またな」
毎年八月二日と三日に開催される花火大会の役員や警備員を市職員が総出で担っており、必ずどちらか一日は担当することになっている。
わたしは昨日は市庁舎での勤務だったので、今日は河川敷に用意された桟敷席の警備員と案内係を担当している。いまは直射日光で暑いし、立ちっぱなしだし、じっくり座って花火を観ることはできないけれど、この場所に当たったのは役得だなと思っていた。
——昨日までは。
昨夜、寝る前に下腹部に痛みを感じて、確かめると、月に一度のあれだった。そういえば、そろそろだったな、と鎮痛剤を飲んだが、花火大会を思うと少し憂鬱になりつつ、眠りについた。
朝起きると、やはりお腹と腰に独特の倦怠感があって、しかし毎月症状が重いのは二日目と三日目だし、いまはまだ一日目だから大丈夫、と自分に言い聞かせ、鎮痛剤の予備を確かめて出勤し、今に至っている。
普段から体育会系の元気者で通っているし、ましてや、生理なので配置場所を替えてください、とはなかなか言い出せなくて。本当は後輩とかのためにも、こういうのをちゃんと言っていかないとなんだよなあ、と自己嫌悪にもなっていた。
気分はどんどん落ちていったけれど、鎮痛剤が効いていたので、腹痛はそこまでつらくはならなかった。
そのかわり頭痛に対して鈍感になっていたようだ。
気がつくと、わたしは花火会場に設けられた臨時救護室で横になっていた。室内はクーラーが効いて涼しく、額にはタオルの上に氷の入ったビニル袋が載せられていて冷たくて気持ちよかった。
「あ、気がついた。具合はどう?」
そばにいた看護師のかたが声を掛けてくれる。
「あ、大丈夫、です……わたし、どうして……」
「熱中症かな。それか貧血かもね。あなた覚えてないの?」
つらつら考えごとをしているうちに目の前が暗くなってきて、立っていられずしゃがみ込んだのを思い出した。蒸し暑い風が吹くなか、そのとき遠くで聞こえた声も。
「思い出しました。も、大丈夫です……戻らなきゃ」
まだ日が高いし、もう少し休んでいったら、と言ってくれる看護師さんを断って救護室を出ると、すぐそばの協賛会社のかたがたが集まるテントの設営をしていた本間がわたしに気がついた。
「もういいんですか」
「ごめん。心配かけちゃったね」
「あー、僕より先輩が……」
「え。どうかしたの」
たしか、あの声は富樫だったような気がするけれど……。
「かっこよかったんですよう。しゃがみ込んだ先輩を見つけるなり、あのいつも怠そうな、あっ」
本間はそこまで言うと、両手で口をおさえて黙ってしまった。わたしの後ろのほうをじっと見ているので、振り返るとすぐそばまで富樫が来ていた。
「おまえ、しゃべりすぎ」
本間にひとこと言うと、わたしのほうを向いた顔は思いっきり顰められていて、見るからに不機嫌そう。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。休んだらよくなった。ここまで連れてきてくれたんだね、ありがとう」
「ああ、まあな。近くにいたし……」
富樫の後ろで本間がぶんぶんと首を横に振ったあと、両手でなにかを持ち上げるゼスチャーをしている。それを見てわたしの顔には熱が集まってきた。
「ん、まだ顔あかい……も少し休んだほうが、いや、今日はもう早退したら」
そんなことを言いつつ、頬に触れてくるので、ますます熱くなる。
「帽子でよくわかんなかったけど、やっぱ顔色悪かったよな、今日。気づかなくてごめんな」
「ううん。わたしこそ、心配かけてごめんね」
わたしの持ち場は、すでに別のひとが替わってくれたというので、運営のほうを手伝うことになった。
日が沈み、だんだん暗くなってきて、みんな今か今かと花火を待っている。心配された天気は、なんとかもってくれそうだ。
わたしもひと段落して本部のテントの後ろのほうに立っていたが、いつのまにか富樫が隣に来ていた。
「そろそろだな」
「うん……あー、今日は桟敷席で観れるはずだったのになあ」
この場所は会場を広く見渡せるので、もちろん悪くはないが、桟敷席と比べてはどの席も見劣りしてしまう。
「来年も桟敷席担当だといいな」
「ああん、ほんと懲りねえな……まあ、もしそうでも体調悪かったら、ちゃんと休めよ」
また顔を顰め呆れつつも、わたしの希望を否定しない彼はやはりいいやつだな、なんて思ったりする。そのとき、そういえば、と思い出した。
「ねえ、救護室までどうやって連れてきてくれたの?」
富樫は目を見開いてわたしをみると、すぐ握った手を口もとに当てて顔を俯かせる。暗くなってきてよく見えないけれど、たぶんあかくなっている。
それを見たわたしの顔にもまた熱が集まってきた。
「……意外と力あるんだね、びっくりした」
「そりゃあ、いざというときにすきな女くらい持ち上げらんないと、な」
「……え、いまなんて」
「あー、もう言わねえ」
わたしたちの顔はきっと、ますますあかくなっている。
暗くなってよかった、とお互い目をあわせたとき、大会の始まりを告げる最初の花火が上がった。
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