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夏の空

 猫が死んで二年経った。
 きょうは猫の命日だった。

 去年、仕事がひどく詰まっていて、一年経ったとゆっくり悼むこともできなかった。
 そして、おまえは学習せんのか? ってくらい今年も詰まっている。なぜなのか。※いろいろあってスケジュールを読み間違えたのです。

 二年前、快晴で雲ひとつない夕方近くになって猫は息を引き取った。
 2000年の12月に雨の中でぴいぴい鳴いていた仔猫だったので、18歳に限りなく近い17歳だったと思われる。ほぼ老衰だが、「肝臓の数値がひどく高いので突然死の可能性があります」と言われたひと月後だった。
 念のために連れていった動物病院で死亡を確認してもらって、咽び泣きながら外に出たら、ぴかぴかの空だった。
 雨じゃなくてよかったなあ、と心のどこかで思っていた。

 母が亡くなったのはそのひと月半前、7月7日の朝早く……午前3時過ぎで、曇りがちの小雨の日だった。その日が通夜で、葬儀は翌日。その日は晴れていたと思う。
 父が亡くなった日は雨模様で、通夜も葬儀も雨だった気がする。

 猫が死んだ日はとてもいい天気だった。あんな快晴はめったにない。だから今でも、雲ひとつない空がぴかぴかに晴れた午後になると、猫のことを思い出す。雨の日に両親のことを思い出したりはしない。

 きょうは残念ながらどんより雲って雷鳴だけが聞こえる午後だったけど、二年前がこんな感じでなくてよかったな……と思ってしまった。こんな天候で猫に死なれてたら自分だったらめちゃくちゃへこむな、という。

 死なれることは喪失で、喪失は、死ぬまで消えない。そのむかし読んだ月村奎氏の作品で、幼いころに指を欠かした男の子が「死ぬまで指がないということは消えない」と言うようなくだりがあったと思う(何もかもうろおぼえ)
 猫がいなくなった事実はわたしが死ぬまで消えないのだなあ、とよく考える。猫に限らず、失ったものを「失ったという事実」は、忘れても忘れなくても消えない。

 物心ついたころから、生きていくのは7割から9割が苦痛だな~と思っているけれど(その苦痛を紛らわせるために刹那的な娯楽を求めがちではあるけれど)、失ったと惜しむものがあったのはたぶん運がいいし、そしてこれからも、失ってから「失ったかなしみ」を知る、何か大切なものがあるんだと思ったりもする。(一文が長い)

 いつまでも死んだ猫から心が切り離せないけれど、夏の午後の快晴のように照らしてくれるのでしかたがないのである。
 これから死ぬまで、「可愛がっていた猫が死んだ」という事実と寄り添って生きていく。