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「本当にやりたいこと」を見極めたい



「やりたいことがありすぎてどうすればいいか分からない」

という状態が10代の間ずっと、去年くらいまで続いた。


最近はようやくその状態を脱してきたように思う。



「やりたいこと」の解像度が上がってきた。

浪人をきっかけに地元を離れて、東京に来たことが、何よりも一番大きい。

(上京については、また書きたいと思っています)


東京で、様々な物や人に出会って刺激を受けることで、自分のやりたいことが明確になってきた。

それを言葉にしたり、図に書き起こしたりするうちに、考えがまとまってきた、というのが一つ。


もう一つは、自分が「本当にやりたいことは何か」を正確に見極めることを意識するようになったのが大きいかもしれない。
今回はこのことについて、自分が忘れないでいるために、書いてみたいと思う。


やりたいことが見つからないという状態の多くは、無意識のうちに「本当はやりたいことがあるけど目を背けている状態」ではないかと、時々思ったりする。


やりたいと思っていることがあって、それに取り組めている場合でも、実は「本当にやりたいこと」がそれとは別にあって、それからは無意識に目を背けている、という状態もある。


どちらにせよ、「自分が本当にやりたいこと」を見極められていない。



それに、「本当にやりたいこと」は、「見つけよう」と思ってもなかなか見つかるものではないのかもしれない。


見つかったとしても、また新たな出来事や出会いによってやりたいことが変化することだってもちろんある。

そういう変化は歓迎するべきだと思う。
いやむしろ、やりたいことが変化していく方が自然なのだろう。


「やりたいこと」は、自分の身に起こった大きな出来事や、衝撃的な人や物との出会いなどの偶然によって見つかるものではないかと考えている。


雷に打たれたみたいに

「自分がやりたかったのはこれだ」

と、強烈に自覚する瞬間が訪れる。


もちろん後から変化することもある。
それでも、そのような瞬間を決して見逃してはならないし、そういうものが見つかったなら、決して目を背けず、周りの目を気にせず、行動するべきだと思う。

そしてその瞬間というのは、いつ訪れるかは分からない。
どんなきっかけで訪れるかも分からない。


いやもしかしたら、その瞬間は既にずっと前に訪れていて、目を背けていたり、自分のその時の気持ちに蓋をしていたり、ということもあり得る。

この、「目を背けている」「蓋をしている」状態は、結構厄介だ。



目を背け、蓋をしていることに自分でも気がつかないのだ。

私はまさにこの状態だった。


これに目を向ける、蓋を開ける手助けをしてくれるのが「やりたいことの見つけ方」などといった書籍だ。

あるいは、これもまた自分の身に起こった大きな出来事や、衝撃的な人、物との出会いによって、自分の本音に気づかされる。



私は、偶然自分にとって、ある大きな出来事があって自分の「やりたいこと」を強烈に自覚したことがあった。
13歳の夏だった。

でもせっかく訪れたその気持ちを、見て見ぬふりをして後の10代を過ごした。
そうして8年が過ぎてしまった。


ある時、衝撃的な出会いがあった。
その時、今まで自分の「本当にやりたいこと」に蓋をして生きてきたことに気がついてしまった。


そこから「やりたいこと」に関する本を読んで、「本当にやりたいこと」を探るワークをして、それを確かなものにしていった。

本当にやりたいことから目を背けていた期間が長かったために、自分の本音と向き合うことには、正直かなり痛みが伴った。


今はまだまだではあるけれど、少しずつ行動に移しているところだ。

けれども気がつけてよかった。

今までの苦しかったこと、悩んだこと、そして人との出会い。


それらに感謝が湧き上がってくる。

人生で起こる全ての出来事には意味がある。

ほんの些細な偶然が重なって、人生が変わることだってあるのだ。

そんな風に、思えるようになった。




やはり、大人になるにつれて、自分の気持ちに目を背けるようになってしまうのかもしれない。

この状態に今まで何度も何度も陥った。

他人の評価や周りの目を気にした。

私はよく周りの人から、
「自分の意思をしっかり持って、真っ直ぐ進んでいる」
と思われることが多い。

でも本当は、とても人目を気にしてしまう性格だ。

人からどう思われるかとか、人と比較したりとか。失敗を恐れて確実な方へ行こうとすることも多くある。意外と言われるかもしれない。

「やりたいこと」よりも「できること」に走ってしまう。
それは今でも自分の悪い癖だ。


もっと「現実」を見なくては。


もう子供じゃないんだ。
夢ばかり見ていてはいけない。


そんな風に思って、

「やりたい」よりも「やれる」

「挑戦」よりも「確実」

「夢」よりも「安定」


そんな選択の仕方をする癖が、小学校高学年から始まってしまった。

だから、小学校低学年の頃に置き去りにしてきてしまった夢もある。


それは今でも、密かに持ち続けている大切な夢だ。



「来世はこんなことをやりたいな〜」
なんて、のほほんと考えた。


考えていて、気がついた。


来世なんて、無い。


いや、分からないけど。
少なくとも私に前世の記憶は無い。



あまりにも馬鹿馬鹿しくて無駄な妄想だったことに気がつく。


人生の時間には、限りがある。
そして、やり直しはできない。
リハーサルもない。

そして、来世はない。

全てが一度きり。



命とは「時間」である。


「本当にやりたいこと」に、たった一つしかないこの命 =「時間」を使うべきなのだ。


「時間」は限られている。

だからこそ、「自分が本当にやりたいこと」を正確に見極める必要があるのだ、と痛感した。

そういえば、このnoteには痛感という単語がよく登場する気がする。

もはや、「痛感の記録」といってもいいのかもしれない。


気づいたこと、考えたことを、文章にして忘れないように記録しておきたい。
これもnoteを書き始めたきっかけの一つだった。


もちろん、やりたいことがいくつもある場合、全部やった方がいい。

やりたいことを正確に見極める、というのは何も、「やりたいことを絞るべき」という意味では決してない。


「やりたいことを絞る」には、私は強く反対だ。

二兎を追う者は一兎をも得ずとよく言うが、

二兎を追いたければ、追うべきだ。

三兎でも四兎でも。


「兎を得る」という結果ばかりを考えるのではなく、「兎を追う」という過程の方こそ重要だと私は考えている。

過程というのは「時間」であり、時間こそ「命」だからだ。


「やりたいことがあったのにやらなかった」
ということに、人は最期に最も後悔する、というのをどこかで聞いた。

私はやりたいことを全て、一つ残らずやりつくしたい。


それでどういう功績を残したとか、どういう結果を得たとかは、興味がない。


高校生のときに、ある大人(当時自分が関心があった分野のプロ)に自分の夢を話してみたところ、

「二兎を追う者は一兎をも得ず、だよ」
と言われて、ひどく落ち込んだことがあった。


何年かの間、この言葉は自分の中に深く突き刺さってズキズキと痛み、
ある種のトラウマになっていた。


やりたいことが複数ある自分は、全てが中途半端に終わって何も成し遂げられないのかもしれないと思うと、あまりに虚しく絶望的な気持ちになった。

やりたいことがただ一つだけあって、それに突き進んでいる人が羨ましくて仕方なかった。


でも今の自分にはこの言葉は一切響かない。

やりたいことを、やりたいだけ、やればいいと思う。

人生は一度しかないのだから。

人生とは時間であり、時間とは行程だ。
得られる結果よりも、そこへ向かおうとする行程こそが人生なのだと思う。




それに一見「色々なことをやっている」ように見えても、
そこにはただ一つの一貫した目的がある、ということもある。


私はそうでありたいし、そうだと思う。



「本当にやりたいことではないこと」をやり続けてしまって、「本当にやりたいこと」から目を背けて、それに取り組めずにいる。そんな状態になってしまわないように。


自分は今はだいぶ、本音に向き合ってものごとを選択したり、行動したりできるようになってきたと感じている。
日々、本来の自分を取り戻していっている感覚がある。


自分のことは、意外と自分でもよく分からないものなんだなと、つくづく思う。

自分は自分に平気で嘘をつく。
それも結構な頻度で。


だからこそ、注意深く、耳を澄ますのだ。




……ここまで書いてみて思いました。

自分はまだなにも成し遂げてはいないじゃないか、にもかかわらずこんな文章を書いてしまったのでした。

それでも言葉にして、忘れないでいるために、あくまで自分に向けて今回は書いてみました。


ずいぶん長くなってしまいましたが、拙い文章にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。



暑さで疲労が何倍にも感じます。

どうか、お身体ご自愛ください。


月と木星がとても近くに、寄り添っていました。

それではまた。

おやすみなさい。









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