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負け試合で自分と向き合う

この感情はどこからきた?

今日、小学1年生長男が
初めてテニスの試合に出場しました。


会場に着くなり、
第一試合目にエントリーされていて
あれよあれよと息子の出番。


「楽しんで!」
と送り出したものの、
【全然、楽しめてない母ここにあり。】


どきどき、ハラハラ、失敗への落胆と
それを息子に見せないように
取り繕った「大丈夫大丈夫」の笑顔…


初戦の相手が6年生という
もうタイトルからして「ヤバい」感を
わたしが漂わせていたんじゃないか…


それに比べると
息子は2ゲーム取ったりと
本人なりに頑張っていた。


なにより、失敗しても
取り返した時の渾身の喜びっぷりに
母は心救われていました(笑)


が、どうしても
3戦して
その度、負けて戻ってくる息子が
「可哀想に」感じてしまう。


本人は試合後、
一瞬そんな様子を見せるけど…
すぐにお友達とキャッキャっと
遊んでいる。


家に帰っても
わたしの中に残る「可哀想」感と
「どうにかしてあげたい」感。


だけど、
今、学んでいるエネルギー論に
この状況を落とし込むと
すべては【わたしの問題】。
(本人が感じている問題は本人のもの)


負けたことを問題視しているのも
これから、
テニスをうまく「させたい!」
と思っているのも


わたしの「思考」によるもの。


この「思考」はエネルギー論的には
過去の産物。


過去の経験データから呼び起こして
あたかも「今」と
「これから」を暗示しているようだけど
『思考』はすべて過去データ。


さて、わたしのこの息子を通してみた
「可哀想」「どうにかしてあげたい」感は
どういった思考からか?


わたしの
幼少期の親に対するスタンスかもしれない。


わたしは「可哀想」であってはならない。
=理想形でありたい、完璧でありたい

わたしは常に「どうにかなっている」存在でなければならない。
=親に心配かけずに、自力で問題を解決したい。隠したい。


そんな思考のルーツが見え隠れ…。


全く息子には関係ないし、
息子がこの試合どう感じて、
今後どうしたいかなんて、
息子のもの。


フリースクールという
大きなフェールドを選択し、
常に挑戦し、選択し、
自分で責任を持って行動している
彼らからは教わることばかり。


今日のこの試合に出向いたことで
わたしのエネルギー論への向き合い方が


「もっと自分事に!やんなさいよ!」と
おしり叩かれた気分。


ありがとう、息子!
ありがとう、本日の試合!




たくさん泣いて
たくさん笑った!


それが素直にできるあなたは
すんばらしいよ!
(わたしはできてなかったもん😂)

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