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母娘(ケース:低等浪人)


「母と娘」

巷に多く溢れるテーマ。
ありふれて、それでいて一つとして同じはない

これはあくまで個人的なものなので
「母娘(ケース低等浪人)」としておく
今現在悩んでいる人をさらに悩ませたり、関係性の良い人が不愉快に思ったりすることは避けたい。

なぜ書くか、ただ振り返りできれば笑いたいので書いてみる、長いのでご容赦を。

母とは


愛に溢れた人だと思った。
自分の欲はほとんど出さず、食事を子には多く与え
誕生日には「生まれてきてくれてありがとう」と言っていた。

また尊敬の対象だった。
道端の草花やさえずる鳥の声の正体はたいてい教えてくれた。悪口や文句を言うこともなかった。

いろんな山を登り、たくさんの旅をし本を読み、様々な職に就き嫌いな食べ物がなくて書く字は整っていた。
それからたくさんの友人に囲まれていた。


自分に厳しく、そして子にも厳しかった。
まるで鋼でできた巨像のようだった。

素直じゃない・目つきが悪い・愛想がない・姿勢が悪い・字が汚い・文章がくどくて分かりづらい…きょうだいで私だけが家事を担った。家を追い出されたり殴られることも。そのたびに委縮し、ますます目つきの悪い疑心暗鬼な子になった
性格の歪みに輪をかけたことだろう。

将来困らないように、と言いながら
子を通して写る親である自分の満足のためではなかったか。もはや真偽はどうでも良い


「上を見ても下を見てもキリが無い。」
諦めろということか、絶望の後
数多くの物を手放し、いつしか人を羨む気持ちも消え去った。

母の変化


さらに年を重ねて母は病んだ
きっとどこかで無理をしていたのだろう
少しずつ積み重なって、澱となりやがて全てが淀み、黒く染まる。
一粒の雨水も、溜まれば堤防を決壊させるように、何事にも限りがあるのだ

怒りや負の感情を露わにし、欲にかられ
目指すべき大人像は崩れ反面教師となった、母。

鋼や鉄壁のような強さは綻び、小さく、脆くなった。
謝り不安そうな姿ははまるで”こわれもの注意”が付いたガラスの器だ。
母にあった強靭さは私に移り、強化された。
砕け散ったガラスをさらに粉々にしてしまうほどの強度に

母も私もどの時点で引き返せば良かったのだろう。
立場が逆転したというか作りが変わったのだ。
鋼がガラスに。粘土細工が鉄製に、
母も私も人間なのでもちろん比喩だ。

ただどこに完璧な家庭があり
完璧な親、そして子がいるのだろう。


復讐


ぶつかり合いそれでどこか最も分かり合えるとも思っていたが空想だった、
愛情が憎悪に変わり私は復讐を思いついた。
ささやかな復讐
「復讐」という響きには陰鬱な重さや負の印象を与えるがこれは前に進むためのバネ。棒を用いて高跳びするように。


しなやかで丈夫な竹に全体重をかけるよう体を乗せきるため地面を蹴る。勢いよく弾き飛び弧を描いて対岸へ着地する。

高く飛ぶつもりの助走でゴールを通り過ぎていた
しなるはずの枝が折れた
そういう分かりやすい失敗で気づければ良かった。
私も暗闇を手探りで這いまわっていた
助走スペースがあることも、枝を用いることにも気づけなかった。


夏目漱石の話に度々登場する”高等遊民”ならぬ”低等浪人”と称したい。買って出たいものでは決してないが、称してみると悪くない
手にするものは価値がないものであってもそのために苦心し這いずり回って生きてゆく、結構なことだ。

当然のようにある物を探さなくはならない人生がある
例えば高校生の頃の明日の食事とか
替えのない制服や靴下の汚れを落とす方法。
私はちゃんと見つけた、値段の割に量やカロリーが多く腹に溜まりそうな100均の輸入菓子。それからウタマロ石鹸。

生きていることに大した意味はなく
むしろ生きるためにどうにかしなければならない。

だけどそうして得た力は強く図太い

親との巡り合わせ

「親ガチャ」と言葉がある
偶然の当たり外れやそれを軽快に表現するところが言い得て妙と思ったりもした
が、「ガチャガチャ」ってもっと自主性があってかつ楽しいものでは?今は昔ほどの“ハズレ”もなくて品質も良いと思う。
母がカプセルに入っていたら可愛いだろうが返品する。

私は親との巡り合わせは「何の準備もせず外出したら雨に降られた」くらいのものだと思っている。友人の素敵な親子関係は空から「飴ちゃん」や「メロンパン」「お金」だとか通常降らないものが空から舞い降りてきた、そう言うラッキーや幸運だと見ていた。
凄い、とか幸せだねと思うけれど羨んだり妬むものではない

それに満腹の時にメロンパンが降ってきても有難迷惑だろうし
砂漠なら雨
無人島なら金よりメロンパンや火打石の方が役に立つかもしれない
火打石が当たると危険だがそこはおいておき、
とにもかくにも環境や人によってその巡りあわせは幸運にも不運にも成り得る。

コスパの良い子


私は自分をコスパの良い子だったと思う
塾に通わせてもらえず、本は図書館で借りていた
家事のほとんどを担った
高校・大学とほとんど奨学金とアルバイトでやりくりしていた。
高校2年間は下宿していたのだが昼食代5、6千円は出してもらえず、朝食を残して弁当箱に詰めたり、スーパーの値引きコーナーのパンをバイト代で買っていた。
受験費用も半分はアルバイト代だ
大学は合格通知を受け取るやいなや市役所へ駆け込み奨学金を申し込んだ。母子家庭を活かして。無利子なことが有難かった
高額だがこれで得た学生生活の仲間に学び、時間は
私には金額以上の価値があった。

もっと優秀で、塾に行かず独学で国公立を出たという方や成績優秀で学費免除された方と比べるまでもない低等ぶりだが
そして高卒できちんと努力し良い就職先を見つけ立派に生きている同級生もたくさん目の当たりにした(地方なので優秀な子ほど高卒で就職していた)

そもそも出すべきものを出してもらった、とて
優秀になり得なかったことも承知

あれ?コスパ悪っ!

コスパの悪い娘


しかし私は母と比較している。
母は貧しくない家庭で育つが高卒間際に祖父が亡くなる
母のきょうだいは高校を出てすぐに就職
しかし母は大学へ、しかも下宿して私大へ。
アルバイトもせず。金銭の価値が違うとはいえ母と比べて圧倒的に安く収まっている。

母が易々と得た経験を母のせいで諦めたら、
私は不平不満を言い続け悔ただろう

だから金を出してもらえず行ったところで大したことのない大学だが悔いはない。母に対して「コスパ良いだろー!」と威張りたいだけ
貧乏なことを分かって進学したので喧嘩したら言うけれど、実際にはそれほど文句は無い。

母が寺社仏閣を巡ったり、友人と旅行へ行ったという学生時代
私はバイト先を渡り歩き、友人と遊ぶと睡眠不足を補うため寝る始末

どこまでもコスパの悪い母


そして現在年老いた母の賃貸保証人は私しかいなくなり
その家も引き払う必要が出て都度費用も労力も割いた。
母のコスパを考えるなんておかしいかも知れないが実際にそうなのだから仕方ない。

母の医療費を払い、施設を探し新たな家具を揃えた。
必要なものはもちろん、机や座り心地の良さそうな
リクライニングチェア
レンタルDVDの契約や手配まで

私は何もしてあげなかったのに、娘はこんなにもしてくれて。もっとあんなことやこんなことをしてあげれば良かった”
後悔すれば良い、そうささやかな復讐。

こんなことまでしてくれて、
”私の育て方は間違っていなかった”
そう思われてはこの復讐は失敗だろうか。

同情や恨みはもはや何の役にも立たない。
正当な復讐でバネを強固にしてゆくいかない。

バネで飛んだ着地点はまた沼かも知れない。
かき集めた砂を敷き詰めぬかるみをならす。
足が一歩踏み出せるくらいにならせば道となる
楽園には程遠くとも、
一歩踏み出すごとに現れる景色に幸せを見出せるかだ。

奨学金計530万があったから
帰る家がなかったから
私は働く理由を見つけられた。
そして働くからには感謝し一生懸命かつ楽しんだ。

530万あれば割と良い車も買える。
私が今乗る軽自動車に換算すると3.5台分、
一人で3台は運転しようがないし残り0.5台どうなるの?

海外旅行も何度か行けそうだが
40歳超えて初めての海外旅行でも良いではないか。

家なら頭金くらいにしかならないがあいにく今の賃貸を気に入っている。

つまり自分の選択を悔やんではいない。
例え他人から見れば愚かでも、自分の人生だから
とは言え大金を完済したときは
安心したし嬉しかった。


比べることに意味はない


広い世界に出て、
何気なく
成育歴を話すと驚かれた
驚かれたことが驚きだった。

狭い世界しか知らない子って目の前の世界が「全て」であり「当たり前」
もちろん優しい親やお金を出してもらえる環境があることは分かる
ただそれは双方の努力と幸運だと思っていた。

私には母しかいないから家事をしたし
口答えするから殴られると思い
力で叶わないから暴言で対抗した。

しかし大人になって知る、意外にも母からの言葉で
「ごめん、アンタが一人暮らししてバイト代や奨学金で過ごしてるって酷い親やと思われるし体裁悪いから同居してることにしてた。てへ。」

てへ、やない!
母は”普通”を知っていた。

20才の誕生日、どうせバイトでいないだろうと
ドアポストから一万円が投函されていた、ATMの封筒に入れて。
「でも一万円助かったよ」
って有り難かったの当時だけだから。
今でもふと思い出して「雑な親」と笑ってしまう。

でもさ「上を見ても下を見てもキリが無い。」
そう言われたから、
目に映るもの、今いる環境を楽しむことにした。

母の愛


社会人となり久しぶりに帰省したとき
二度寝からぼんやり目覚めようとウトウトしていたら
やって来た母は熟睡していると思い込み
そっと寝ている私の頭を撫でた。

目を閉じていたが、母の表情は分かった

母は自分に似ず頭が悪く
愛嬌のない、なのに感情を爆発させ
だが泥臭く頑張れる私を大切に思っていた

ただ不器用なのだろう。
人には優しいし悪く言わないが自分や自分の子にとことん厳しい。

幼いころは、手作りケーキで祝ってくれた
サンタはいつも的外れな物をくれた

季節に応じ柚子や菖蒲を風呂に浮かべたり
節分には関西だから?平成初期から恵方巻を作って食べたりした、高野豆腐や干瓢とか渋い具材だったが。
習わしでは「福を逃がさぬよう1本食べきるまで無言で」とあったが
「楽しく食べた方が福を呼ぶわ。一口だけ恵方向いて静かに心込めて食べ。あとはいつも通り。」

今でも夫婦で初めの一口だけそうしている。
昨年はいろんな種類につられシェアするために切ったらただの一切れごとの巻きずしになった。
だが気の持ちようで幸せになれる、そう教わったのは母からだ。

習い事の前に商店街で買ってくれるおやつの「ツナマヨクレープ」が楽しみだった。ある時硬いツナだと思っていたらぐらついていた歯が抜けていた(乳歯)
成長を喜び、下の歯なら空高く投げ上なら下へと教わった。

河川敷に伸びている土筆を摘んで佃煮にして食べたり
学校の栗を拾って(律儀だがきちんと持ち帰ることを断っていた)帰ると栗ご飯にしてくれた。

厳しいがたまには褒めてくれた、
貧しさを隠すためだったかも知れないがそれでも良い。

あの時、間違いなく私は幸せだった。


囚われる母と手放す私

歪んだ愛情や不器用さも感じたが結局
子どもたちを大切にしていたのだ

しかし数年前子のうちの一人が死んだ。

母の心には埋まらない穴ができた。
生きている私は決して追い付けない存在になったきょうだいに、一方通行の愛と懺悔を母は送り続けている。

お金や人を羨む気持ち、集めた物いろいろ手放したが
私は最後に「母に褒められたい」という荷物を捨てた。

私はお金や物が欲しかったのではない
認められたり褒めて欲しかった。

現在の母の空洞を抱えた心には写りきらない私がいる

しかし時間が経ち母の存在が重くなってきた一方で
私は少しずつ頼れる人に出会った。

泣けば慰め、怒りに共に震え
笑い合える人たちに。そして生涯の伴侶に。
母に褒めてもらえなくても、無条件に認めてくれる人がいるから
これでいい。

だから母に恩を着せられる筋合いもないし
後ろめたく思う必要もない
済まなさそうな顔して付いてこないでほしい

でもなんだかんだ私は母を放っておけない
自分は子に限りない幸せを教えたのに
自身は見失ったのだから。



だが突然の雨もいつか乾くし
傘を備えることもできる。


下宿で1人過ごす年末、お節を差し入れてくれた友人のお母さんがいた。30代半ばの今も誕生日プレゼントをくれる友人のお母さんもいる。

それから友人達は言う
「もう散々尽くしたから…いつでも味方だよ」母だからってその全てを私が背負わなくても良いと教えてくれた
「ま、後悔のないように」確かにやらない後悔とやってあげる後悔だってあるのだ。
そして這い上がったら「これ以上の悪いことは起きないよ大丈夫」別の友人には「二度あることは三度ある」
とも 笑
そしてその全てに救われた。
雨に降られたら避難したり人の傘に寄せてもらっても良いのだ、感謝の気持ちを持って。

私は周りのおかげと自分で集めた幸せに包まれている
「余裕」でもう少しその包みを広げられたなら
母に分けてあげたいのだが。
今はまだ…


私が運転に慣れたこと
料理のレパートリーが増えたこと
少しご馳走しただけでもたいそう喜ぶ。
そして地雷発言で激しい怒りをぶつけられしゅんとする。←これは復讐のつもりはない、コスパの良い娘の副産物と思ってくれ 笑

母娘の不思議

私はささいなことを幸せだと感じられる
小さな頃と同じように、より深くより大きく。

虚勢でもプライドであっても良い。

私が“低等浪人”を楽しんでいるのは
やはり母に育てられたからだと思う。
なんだかんだ、母の悪しきところは変えが効くが
良いところは母から譲り受けたように思えるのだ。


しょうがない、ボーナスが出たら夏休みに会いに行くか
引き寄せられてしまうのも母娘の宿命かもしれない

そして復讐をしながらもどこかで幸せを願っている
その根底にある気持ちは一生交わらない。
育った環境や考えが違い過ぎるから、
それでも互いが幸せであれば良いと思い合っている
そういう気がする。




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