ふとTikTokを見て,悲しくなるワケ

勉強することが他のどの方法よりも安全で確実に社会の上に行ける方法だと思ってた.
そんな私が研究室で,研究の息抜きとしてTikTokを見始めることがたまにある.
(TikTokの思惑にまんまとハマり,ついつい1時間ぐらいぶっ通しでおすすめに載っている動画を見てしまうのは,避けられない.)
そして見終わった後はいつも,私は自分のことがすごく悲しくなる.

TikTokではいいね数の多い15秒ぐらいの動画が,スマホで画面を縦にスクロールするだけで次々と見られる.
どういう動画がバズっているかの分類は,長くなるので,ここではしない.
私はほとんど誰もフォローしていないから,そういうおすすめとして流れている動画をサササと見ていくわけである.

そんななかで人間社会に関するかなり重要な示唆が2点,TikTokで流行る動画で表面化していると思う.
この事実をまざまざと目にした時に,私はすごく,自分自身に対して悲しくなるのである.

それは,
・「自分の得意なことで,何か光るものがあれば,脚光も浴びられるし,自分をアピールできる」という事実.
そして
・そして「職種,年収に関わらず,自由で創造的な発想で日常に楽しみを作り出すことで,人生を明るくできる」という事実.

この二点だ.

この事実は,まぁ当たり前といえばもちろん当たり前のことだ.
映画とかでも良く描かれるテーマだし,どこかでよく聞くような話だ.中学生ぐらいでもそういう事をしっかり考えている人もいるだろう.
TikTokのバズる動画では,そういう幸せな生き方の一般解みたいなものが,実際にカメラで撮られていると,見ていていつも思ってしまう.

うん,それはそれで,そういうものだと思う.
ただ,私が恐ろしいと感じてしまうのはまさに次のことだ.

それは,
TikTokでバズっている動画のほとんどは,映画でもドラマでも漫画でも小説でもなく,実際に一般の人の間で起こったリアルな出来事そのものだということだ.

すなわち,(大金持ちや有名人・セレブでないという意味で)普通の市民が,あれだけ感動的な瞬間を,あれだけ愛おしく思わせる振る舞いを,あれだけ面白い行為を,日本のそれだけ多くの場所で生み出しているという事実だ.

自分の周りにそういうものがあるのだろうか.
自分はそういうものを作り出す努力をしているのだろうか.そういうものに気づこうとしているだろうか.
自分はそういう楽しさを他人にもたらせているだろうか.
自分は今何か人をそれだけ感動させられるだけのアウトプットができているのだろうか.

自分の「イエス」の数の少なさに私は悲しくなるのである.

勉強して社会で活躍することはものすごく価値のあることだと思う.
しかしそういうエリート志向がすべてでないことをTikTokは改めて提示している.
これだけ頭でっかちだったのは私だけだろうか,という意味でも不安になる.

もちろん,一般の人が一目見ただけで面白いと思うような目立つことをすることと,学問の世界で戦うことは別物だ.
ただそれにしても,自分はその分本当に研究・勉強の世界で全力で働けているのだろうか.結果を残しているのだろうか.

自己啓発の話を聞いたり本を読む私にとっては,痛い程耳にしてきた,目にしてきたことがある.「とにかく自分が得意な分野で人から『おお!』と言われる実績を作ることが成功するために必要.」「何かこれだけは負けないというものを一つ作りなさい.」ということだ.

その壁の前に,これまでの人生もずっと立っていて,23歳大学四年生の今も立ち続けているのだということを,改めて認識する.

TikTokを1時間見た後の夜10時,研究室にて.



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