人と違うことをする、をおそれない。

 久しぶりにテレビを観た。

 昨日からうまれたばかりの娘と一緒に、妻かたの実家にお邪魔している。娘はじめての車移動を終え義理の母が出迎えてくれた。一目散に娘のところにやって来て、一目散に部屋のなかへ連れてゆく。目にも留まらぬすばやい動きとは裏腹に、その顔と声はとろとろに蕩けそうであった。

 娘が一ヶ月間過ごす部屋のドアをあけて驚いた。お姫さまのベットについているような白いレースのカーテンがかかっているのではない。目頭が熱くなった。そんな義理の母の愛の工夫のおかげもあり、娘はじつにスムーズにあたらしい環境に馴染んでくれた。

 妻も娘も元気に退院できたことをお祝いして、娘がうまれて初めてお酒を飲んだ。亡き父にも大好きだったアサヒスーパードライと落花生をお供えして、みんなでお酒を飲んで、おつまみを食べて、ご飯を食べた。そのあいだ娘の抱っこ権が争奪戦であったことは言うまでもない。

 ひとしきりワイワイと盛り上がって、場が落ち着きを見せたころ。義理の父が言った。「あ、ファミリーヒストリーやってるんじゃない?」そして、テレビの電源を入れる。いくつか番組をザッピングしたあと、NHKのチャンネルに合わせた。

 昨夜は堺正章さんとそのお父さまである、堺駿二さんが取り上げられていた。正直ずいぶんと前の世代ということもあり、個別エピソードはおろか駿二さんの活動も知らないことばかりで新鮮に響いてきた。エンディング間近に思わずツイート。

 さてと、ずいぶんと回り道をして本題にたどり着いた。そう、偏りのお話である。ファミリーシークレットが終わりテレビの電源を切り、グラスに残ったぬるいビールを飲みながらテレビの話へ。

 僕らは自宅にテレビを置いていない。これは同居した当初からそうだし、これからも置くつもりはない。義理の父は、娘がうまれたあともテレビは置かないのかい? と。世の中の情報から疎くなるんじゃないかという、ささやかな心配からの質問だったと思う。そういえばこのあいだ、僕の母からも遠回しな心配をされてたっけ。弟夫妻は同じく0歳児の息子に、「英語で遊ぼう!」的な番組を見せて勉強させてるみたいよと。

 世の中の情報はネットで仕入れます、というのが僕たちの方針ではある。僕のまわりにはテレビを置いていない人たちも多い。実際に10〜20代の6人に1人はテレビを持っていない、そんなデータもある。ただ、母や義理の父の意見を無碍にしたいわけではなく、聞きながら腕を組んで考えこんでしまった。

 僕らが取り入れている情報は偏っているのだろうか?

 いったんそんな風に考えはじめると、不安の火種がすこしずつ大きくなってゆく。あれ? けっこう偏ってるんじゃない、僕って?

 具体的に思い出してみると、僕が触れる情報のほとんどは小説で、あとはツイッターとnoteの記事を読む、くらいだ。あ、ほぼ日もよく訪れる。ネットでニュースを仕入れるといいながら、Yahoo!ニュースもほとんど見ていない事実に気がついた。世に言うふつうと比べると大きく偏っているだろう。( 読む小説もジャンルが偏っているし、同じ本を何度も読むことも多いし、ツイッターもフォローしている77名のものが中心だし )

 不安の火にジリジリとあぶられたあと、あらためて、これでいいと決めなおした。他人と違う何かを語りたければ( やりたければ )、他人と違う情報を仕入れることが求められるからである。そうであるとするならば、取り込む情報が偏っていればいるほど、きっとその人は違った何かを語れるということになるのだから。

 人と違うことをするのには、不安がともなう。それを乗り越えてゆこう。自分の言葉で、自分の手で何かを生み出そうとする人こそ、自分だけにしかできない何かに至ることができるのだと思うから。

 ということでこれを機に、なんなら、もっと偏っていこうと思いました。ただし、自分自身については大きな心配はしていないけれど、娘に触れされる情報や与える教育については要検討ですね。

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