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平和と子どもを殺す親。

 今朝は遅めに目を覚ます。娘をお風呂に入れる。腕で抱きかかえて湯船につけてあげる。寝ている。なんとも気持ちよさそうに。手を離したら溺れてしまう。でもそこには、いっさいの警戒心というものがない。安心しきった表情、リラックスした手足、見ているこっちまでやさしい気持ちになってくる。

 久しぶりの雨にすこし憂鬱な気持ちで外へ出る。電車は空いていて余裕をもって座れた。小説のページをひらきながら代官山まで移動。14時からのアポイントまで時間があったので、とんかつのぽん太へ。

 ( たぶん )息子と母親の親子であろうふたりがお店に立っている。おばあちゃんに近いお母さんがすこし震える手でお茶とおしぼりを運んでくる。田舎の実家にありそうな使い込まれたおしぼりで手と顔を拭いた。店内を見渡すと、パリッとしたスーツに身を包んだサラリーマンがスマホをいじりながら、中年の夫婦がたわいもない会話を交わしながら、初老の男性が古書を机にひらいたままとんかつを食している。みな思い思いに過ごしてた。とんかつが出てくるのも遅いのだが、それもまたいい。

 平和な時間に身を委ねツイッターを眺めていると、こんなことをつぶやきたくなった。

 すこし時間をさかのぼって昨夜のこと。里帰り育児のために妻かたの実家で夜ご飯を食べる最後の夜だった。だからか、お酒を少々飲みすぎたようだ。最後は倒れこむようにしてねむりについた。その席で、わが子を殺した親の話が出た。前後の脈略は不明。

 そのことについて誰かが、「考えられない、ひどい」と口にしたのを聞いて、ふだんは聞き役でいることが多いのだが、つい饒舌になってしまった。

 そう簡単に「考えられない、ひどい」と言うのはよくないんじゃないか、と僕は言った。この発言をした人だって、そう簡単に言った言葉じゃないかもしれない。だから、その人がどうこうではなく、ここでは、僕がこのことになぜ反応してしまったのか、について書いてみたい。

 ちなみに僕は以前( それが何年前だったのかは覚えていない )、たしか母親と弟と三人でドライブしながら話しているとき、こんなことを言った覚えがある。子どもを生んで自分の手で殺すくらいなら、その親自身が死んでしまえばいいと。もしくは死ぬべきだ、とさえ言ったかもしれない。たぶん相当にヒートアップして語気も荒く。

 いまでもその主張が間違っているとは思わない。それくらいのことを思っている僕も、確かにいて。それを否定できないし、否定しようとも思わない。それくらいに、子どもを殺す親に対して激しい憤りがある。しかし、である。その反対に、その親たちがどれほど激しい苦しみや混乱のなかにいたのか、その立場に立とうとしてみると、心臓を何者かの手によって掴まれつぶされるように苦しくなる。そして同時に、それは殺された側の子どもの立場に立ってみたってまったく同じだ。

 たぶんこの話のきっかけになったであろうつい先日に起こった、父親が10歳の娘を虐待で死亡させたという事件の記事を読んだ。言葉にするとあまりにもチープで嫌なのだが、激しい怒りや憎しみ、悲しみや絶望が渦巻く深くて暗い海に投げこまれた気分になった。なんの言葉も出てこない。それらの感情をどこに向ければいいのかわからず途方にくれる。その父親に向けることができるのか、、先ほど書いたようにそれも違う気がする。では、その父親のさらに親に向けて祖父母を批判すればいいのか、もしかしたらそうなのかもしれないし、それだけではすまない気がする。ならば、その父を娘の虐待と殺害にまで追い詰めた社会システムのようなものへと矛先を向けたらいいのか、それもあるのかもしれない。がしかし、そうなっていくと、最後はどうしても答えを出せないのだ。

 ということで、この文章には結論のようなものはない。あった事実を書いて、そこから僕が考えたことを書いただけだ。これを書いた理由さえわからない。こういう、どうしようもないように思えることを腹に抱えたまま、僕は生きるし、書いてゆく。

 今日もnoteを読みにきてくださって、ありがとうございました。今日書いたようなことも踏まえて、noteの定期購読マガジンでは、もっと自由に突っ込んだ、そんなたいそうなもん自分なんかに書けるはずもない、みたいな思いっきりディープな本の原稿も書いていきたいと思いはじめている。たとえば、『たましいを救う本』みたいな。

✳︎ たましいを救う過程は、例外なく苦しみを伴う。

✳︎ たましいの救いは、矛盾のなかに存在する。

✳︎ 家族代々の呪いを解け。

的な小見出しを思いつくたびに、noteの下書きに書きつけている。ひたすら項目出しして、原稿を書いてゆこう。ピンときたらぜひ本づくりの過程を見届けてください。


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