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深川不動堂にて写経を

朔日詣でも兼ねて深川不動堂へ。一週間後が父の命日なので、護摩木供養と写経の申し込みをする。もう11年経つので心配はしていない。とっくに菩提は叶っていると思う。私が不動尊に喜捨と納経をしたいがために、命日を活用しているといったほうが正しい。

護摩木に父の戒名を綴っている時に、何か違和感があった。「慧」という字が、どうもおかしい。何か足りないと思ってスマホで調べたら「ヨ」が抜けていた。空白に小さい「ョ」を滑り込ませ、体裁を整える。誤字を書いている時は、なんとなくわかるものだ。この前、芥川龍之介を「龍之助」と書いた時も、何かおかしいと思ったのだ。この違和感は大事にしたい。

さて、受付で「不動経の写経をしたい」と申し出て、内仏殿に向かった。衝立で区切られた空間で、7人くらい写経している。自分の番号の席に座ると、机の上にあるのは「般若心経」の用紙だった。そのまま書いてもいいか、と一瞬思ったが、いや私が書きたいのは「不動経」なのだ。これを写経できる場所はあまりない。扉の外に置かれた内線電話で事務所に連絡し(ずっと話中だった)用紙を変えてもらった。

仏説聖不動経

今回は筆ペンを持参したので、すらすら書けた。ペンが細すぎたが、そもそも写経は文字の巧拙を競うものではないので、気にしない。
最後の願意で「今度こそ、間違えないぞ」と気合を入れたが、戒名に気を取られ、今度は最初に「為」と書くのを失念した。おっちょこちょいにもほどがある。また小さく書いた(左端の行を参照)。どうも忘れっぽいな。鳥頭というより、ざる頭になっている。

護摩焚き申し込みと写経をしたので、墓参りは省略しようと思う。先月の母の命日も省略したが、最近疲れやすい上、今は足を痛めているのだ(もし健脚なら内線など使わず、直接事務所に行った)。うちの両親はふたりとも親の墓参りをしない性質だったので、まず文句は言うまい。


写経をするとけっこうすっきりする。何より、モノが増えないのが良い。
御朱印ブームだが、私は集めたこともないし、多分今後も集めないと思う。
<理由>
・モノが増える
・手荷物になる
・時間の浪費(長蛇の列に並ぶなど)
・汚損しないよう気を遣う
・なくとも神仏と繋がれると思っている
・当人が亡くなった時に始末に困る

というところか。小栗左多里さんが初めて御朱印をいただいた時に「お参りはスタンプラリーじゃない。自分と神様の約束は、自分がわかっていればいいこと。だから、もう集めなくていいや」と書いていたように思うが、まさにその感覚である。もちろん、楽しめる人は集めればいいし、合わないと思う人は集めなければいいのだ。

そういえば、深川不動堂でも納経のたびにミニ帳にハンコをひとつ押してもらえる(ラジオ体操のカード方式)。100回まで押すことができる。1回2000円だから、100回おさめたら20万円か。
こういうスタンプ系に関心がないため、数年前にいただいた帳面を断捨離してしまい、今回とぼけて再発行してもらったことは内緒だ。


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