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誰にも理解させない私だけの世界

 私は写真があまり好きではない。理由は、自分だけの世界ではなくなってしまうからだ。

 生きていれば何度も何度も、この瞬間を永遠にしたいと思う瞬間が訪れるのではないでしょうか。大切な人と一緒にいる時や、終電を逃した夜に一瞬香った懐かしい匂い、大切な友人と沈黙を共有している時。この時が永遠になって欲しいと思って仕方ない瞬間。そのひとときを世界から切り取って、自分だけのものにしたいと思うことはありませんか。

 写真は、自分勝手で、自己中心的で、あまりに独善的、そういうものであってほしいと思います。写真とはその人が残したい世界を切り取ったものであってほしい。その人が世界から盗んでいったものがそこには刻まれていてほしい。今自分が目の当たりにしている美しいひとときは、自分にとってのみ美しいものなのだと思います。この気持ち、浮かぶネオン、少しの変なにおい、人の賑わい、頭に浮かぶ友達の顔、頬を撫でる涼風など。全部が合わさって、「美しい」が完成すると思います。そして、この美しさを永遠にしたいと思うのです。どうか写真という形でもいいから永遠になってくれませんかと、画像という一元的なデータでもいいからその欠片を残したいと思うのです。

 だからいつも、スマホのカメラを起動してみます。とりあえず撮影してみるのです。でも、速攻削除がいつもの流れになります。尊大な希望を抱いて、写真を撮ってみるのです。すると、私の目に映る美しい世界が誰でもわかるただの風景に、全人類に対して一律の情報へとチューニングされているではありませんか。「なんか違う」という感覚は、写真の撮り方が上手なのか下手なのかという問題ではなく、「そこに自分が残したいと思ったものがあるか」という疑念なのです。胸を震わせて切り取った世界には、においや私の心、目蓋に焼き付くような綺麗な光は保存されていませんでした。未来にこの瞬間を思い出したいがために、画像という手段を用いて世界を切り取ろうとしましたが、『思い出したいモノ』は画像には収まらなかったのです。

 果たしてそんな写真に意味はあるのでしょうか。すくなくとも、私が撮影した写真は私が込めたかった価値を受け取ってくれません。私だけの世界は絶対に写真の中に収まらない。私の自己中心的な自己満足は自分の中でしか成立しないのです。

 それでも私は諦めたくありません。夜に独り、立つ。病んでしまった心を撫でる。将来の不安に怯える。過去の選択を悔いる。何度も何度も同じことで、くだらないことで悩む。悩むという行為で現状を正当化して、朝を待つ。昔親しかった彼ら彼女らを思い出して、寂しい気持ちを夜空に溶かす。そんな瞬間を私は大切にしたい。ダサいなど、思わないのです。いつかきっと、忘れるから。そんな心も捨ててしまうから。失くしたくないという想いも込めて、世界から自分の心を持ち出したい。

 どうすれば自分だけの世界に、独善的な瞬間にできるのだろうかと私は考えました。そこで私が選んだ結論は、深夜の賑わいが失われた空間を撮影することと、自分だけの撮り方をすることです。

 この記事のタイトルに使った写真は午前2時の東京駅丸の内で撮影したものです。真冬だったこともあり、誰一人としてそこにはいませんでした。ゴミひとつない大広間となった丸の内は余りにも美しく言葉を失いました。思わず踊ってしまいそうなぐらい、蠱惑の空間でした。ここに載せることで誰かにその存在と私が切り取った世界を知られることが嫌だと思えるほどに、そこには独占したい美しさと自分だけの空間がありました。

 思い入れのある場所は、より一層独占したくなります。ここにいるのは私だけ、この景色も私だけのものだ、と。電光がキラキラ輝いていて、まだちらほらと人が歩いていて、誰の知り合いでもない私もそこにいる。都会の存在感に気圧されて思いを馳せてしまうのです。ここにいるよと叫ぶように。

 私はこのようにして自分の世界と心を保存しようとしています。あの時の心を思い起こすことはできて、自分が見た温度や音、光の感覚を大体思い起こすことができるので80点ぐらいでしょうか。自己満足度は比較的高いと思っています。ですが、これで100%納得しているわけではありません。当然のことながら、あの瞬間に吹いていた涼風はもう吹きませんから。それにこのような写真は何枚も撮れるわけではありません。何十枚と撮影した中に、たまに自分の世界が紛れ込んでいる写真があるという所感です。やはり大抵の写真は、全人類に平等の情報へチューニングされてしまいます。結局のところ、写真で自分の世界を切り取ることは困難で、平たい世界ばかり写す写真はあまり好きにはなれません。意味不明なことをいいますが、もしかしたら私はカメラさんにアイデンティティを求めているのかもしれません。
「そのレンズに映っているものは何?」なんて。

 写真は独善的でなければならない、その人にしかわからない価値だけ持っていればいい、など歪んでいて独特なことを発言した一方で、大切な人が嬉しそうに見せてくれる写真には、たとえそれがどんなものであろうと大きな価値と愛おしさを感じます。なぜならその写真には、相手が残したいと思った風景と、私や貴方に見せたいと思った気持ちが籠っているからです。それは、私にとっては私と貴方だけの世界にもなっていますから。もっと言うと、私は貴方に秘密であなたが写真を見せてくれたこの瞬間を俯瞰で撮影したい。ここで言う「大切な人」というのは私の大切な人ではなく、私や貴方の大切な人のことです。

 私を好きでいてくれている人にとっては、私の写真も価値あるものになるのかもしれません。でも先ほど述べたように、私が切り取りたいと思って撮影した写真は、「自己中心的であまりに独善的」であって欲しいのです。他人に理解される切り取り方では、自分だけの世界ではなくなってしまう。自己中心的になれない写真など私にとっては微塵も価値が無いのです。


ここまで私の超個人的で理解しがたい戯言を読んでくださった方、誠にありがとうございました。

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