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戦前の遺物(推定)が発掘されたので調べてみた

 こんにちは、丁_スエキチです。

 先日、研究室の片付けの手伝いをして、その最中で、部屋の奥底に眠っていた、開かずの段ボール達の開封の儀を執り行ったのです。
 1980年代の資料、1940年代の標本、1920年代に撮影された誰かの写真......。そりゃもう古いものが沢山ありました。
 その中に混じって、こんなものが発掘されたのです。

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 相当古いパン屋の紙袋。先生曰く、「前まで東大前のところにパン屋があったんだよ」とのことでした。たしかに「本郷帝大農学部前」とあります。

 しかし、これ、一体いつのものだ!?

 大正ロマンを感じさせる文字のデザイン、右から左へ読む横文字、明らかに現在と異なる電話番号表記。ひょっとして戦前のものではないでしょうか? 実に気になります。このままだとゴミ箱行きっぽかったし、大学の備品でもないので、ちゃっかり僕が持って帰ることにしました。

1. ヒント探し

 紙袋に印刷されているのは次のような文字。

・○に「髙」
・「パン製造 洋菓子 食料品」
・「本郷帝大農学部前」
・「朝日堂」
・「電話 小石川八三三」
・「ASAHIDO S BREAD」

 電話番号が表記されているので、東京に電話が開通した後、ということがパッとわかりますね。

2. 店の情報を探す

 とりあえず店名がわかっているので、Google先生を頼りに調べていきましょう。
 朝日堂ベーカリーは東大農学部正門の真向かいのビルの1階に位置していたようです。現在は2階に歯医者があるだけです。
 食べログの口コミを見ると2012年のものがあったりするので、割と最近まで開いていたらしい、ということが分かります。

 そして、こちらのブログによって、1933年(昭和8年)開業、2013年4月27日閉店ということが分かりました。
 まあ流石に平成の世になっても「小石川八三三」の電話番号表記を使い続けていたとは考えにくいので、このデザインの紙袋がいつ頃まで使われ続けていたのか、更に年代を絞っていく必要がありますね。

3. 電話番号簿

 古い電話帳を見れば、いつ頃から電話を使い始めたのか分かるかもしれない、と思ったので、見てみました。

 中央区立図書館がウェブで公開してくれていました。大正15年(1926年)5月から昭和17年(1942年)10月の当時の電話帳を見ることができます。ありがてぇ。

 昭和4年(1929年)10月の東京電話番号簿の追加電話番号簿以降、「朝日堂 高柳榮喜」の表記があり、「髙」と屋号が一致しているので、キタコレ!?と思いましたが、青山局番であること、東大前の朝日堂が開業した昭和8年(1933年)以降も青山局番の番号が残っていることから、おそらく無関係でした。
 上記以外にも昭和9年(1942年)4月の東京電話番号簿以降にも「朝日堂」はありますが、神田局番だったので別の朝日堂であるようです。
 「食料品」「パン製造」「ベーカリー」「洋菓子店」などが頭につく可能性も考慮して、「あ」以外にも「し」「は」「へ」「よ」を確認してみましたが、該当するものは見つかりませんでした。

 よって可能性は二つ。
①電話は開通していたが電話帳に番号を載せていなかった
②昭和17年(1942年)10月以降に電話が開通した

 ①説についてですが、「商売をしていたにもかかわらず電話帳に番号を載せないことは一般的だったのか」が気になるところです。②説は、昭和18年(1943年)以降の電話帳を閲覧すれば真偽が確かめられそうです。国立国会図書館のデジタルアーカイブを大学の図書館で取り寄せしてみるのも手ですね。

4. 英語の使用

 紙袋には思いっきり「ASAHI S BREAD」と英語が書かれていますが、アメリカやイギリスと対立していた第二次世界大戦当時にそんなことしていたら非国民扱いされてしまいそうな気がします。

 が、こちらのブログ曰く、意外と戦時中も「敵性語」は使われていたようです。マスコミや一部の過激派は「ケシカランそれでも日本人か」という流れだったようですが、一般人にはどこ吹く風だったようです。Twitterにいる過激派リベラルみたいですね(要らんこと言う)。
 太平洋戦争があった昭和16年(1941年)~昭和20年(1945年)を除外できるかと思いましたが、そうでもないようです。

5. 帝大と東大

 現在、東京大学農学部は弥生キャンパスに位置しています。
 しかし、かつては駒場、つまり現在の教養学部および理学部数学科が位置するキャンパスに存在したのです。

 明治初期に設立された駒場農学校は、合併によって東京農林学校、帝国大学農科大学と名前を変えたのち、大正8年(1919年)に東京帝国大学農学部になりました。その後、昭和10年(1935年)に第一高等学校(東大教養学部の前身)と敷地を交換しました。
 また、昭和22年(1947年)の帝国大学令改正により、「東京帝国大学」が「東京大学」に改称されました。

 つまり、紙袋に「本郷帝大農学部前」と印刷されるのは、昭和10年(1935年)~昭和22年(1947年)の間である可能性が高い、と言えます。

 ただし、「帝大」という名称が改正後もしばらくは通称として用いられていた可能性は高いので、昭和22年以降に作られたデザインであるかもしれませんし、紙袋のデザインをわざわざ変えるのが面倒でしばらくそのまま使っていた可能性もあります。
 しかし、開業(昭和8年)当時から変わらない包装デザインであった可能性は棄却されました。やったぜ。

6. 今後の調査予定

・昭和18年以降の電話帳
・「小石川八三三」のように、局番が数字でなく地名で表記されているが、それが一般的だったのはいつ頃までなのか
・店が電話帳に電話番号を載せないことは昭和初期の段階で起こりうることなのか
・「帝大」はいつ頃まで通称として流布していたのか、「東大」の名称が浸透したのはいつ頃なのか
・博物館や近隣住民への聞き取り
 一応、春日駅のそばにある文京ふるさと歴史館に行ってみたのですが、一部展示が制限されていたり、地域学習サポートコーナーが中止されていたりしたので何の成果も得られませんでした(でも弥生土器や駒込土物店の展示とかがあって面白かったです)。新型コロナウイルスのドタバタが終わったら改めて行きたいですね。

・思い切って朝日堂ベーカリーの連絡先に直接聞いてみる

 東大農学部の広報誌の中に連絡先を見つけてしまったんですよね。今もつながるかは分かりませんが......。流石に電話番号は八三三ではないようです。

 とりあえず朝日堂の紙袋はクリアファイルに挟んだ上で直射日光を避けて保存してあります。
 今後、進展があったらまたnoteに記事を書きます。情報もドシドシ募集中です。

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