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ボランティアと自己犠牲の間で

「ボランティアって、一体どこまでやればいいんだろう?」
「やっている内容が”仕事”になっちゃってる気がする、、」
「私がここにいる意味ってなんだろう」

今、JICA海外協力隊でジンバブエに派遣されている。「ボランティア」という形で派遣されながら、この活動形態に疑問を感じる毎日である。恐らく、協力隊として派遣される人の多くが感じるモヤモヤではないかと思う。

このnoteは、いろいろな協力隊員たちとやりとりした上で考えた、私の最近のモヤモヤの備忘録である。

*この記事は、あくまで身近な協力隊員の様子しかみていない私の主観から作成されたものです。

”仕事”と”ボランティア活動”の定義

まず、仕事と海外協力隊におけるボランティア活動は何が違うか考えてみよう。私は、海外協力隊の活動に「仕事」という言葉は使いたくないと思っている。あくまで、これはボランティア「活動」であると思うからである。

私が考える”仕事”の定義は、自分の産んだ成果に対して対価をもらうこと。サービス業ならお客様からとも考えられるだろうし、会社に入って会社のために働いているなら雇用主から、対価をくれる人は法人でも人でもいいけれど、とにかく、自分の生産物に対して対価をもらうこと。なんなら、対価のために”仕事”をすると言い換えてもいいかもしれない。

対してボランティアは、完全に善意からの行動であって、対価を求めない。ギャラが出ない分、責任もない。何をやってもいいし、何をやらなくてもいい。何も成果が出なくても、誰にも怒られることはない。

協力隊で少し複雑なのは、私は日本という国から手当をいただいていて、語学や専門分野に関する研修を無料で受けさせてもらえている、ということである。なので、どちらかというと、この活動先のため、というよりも、最終的に日本の役に立つような活動をしないといけないという縛りはあるような気がする。

つまり正確には、日本国民の税金をかけている分、ある程度の成果は求められるようになっている。ただ、それは「日本」に報告する義務はあるけれど、こちらの政府などに報告する「義務」はないように見える。

例えば、ジンバブエ政府の教育省にプレゼンをする際は、こちらから「こんな成果が出たので、共有させてください」というポジションになってしまう。ジンバブエ側は協力隊派遣に際してお金を出していない(正確には家の準備などをお願いすることはあるが)ので、彼らはモニタリングする必要はないのである。何も成果が出なくても特に問題ではないし、何か良い成果が出たら「そうなのね、ありがとう」というだけ。

”仕事”になってしまいがちな協力隊活動

けれど、問題は、活動内容が”仕事”と同じになってしまうことだと思う。日本では報酬を得て行うであろう”仕事”と、協力隊で行うボランティア活動の内容がほぼ同じになってしまう。

専門職であればあるほどこうなる傾向が高い気がする。さまざまな職種があるけれど、医療に関係する職種や教職などは特に、フリーレイバーとしてタダで労働力を供給する人材になりかねない。それはその国の将来を考えるボランティアではなく、ただの”労働”だと私は思う。

では、協力隊活動が”労働”になってしまうことの何が問題なのだろう。それは、仕事では存在するはずの雇用者側の責任が全くないことだと考えている。仕事であれば、例えば雇用する側は労働に対して対価を支払うという責任がある。何かトラブルがあれば雇用者側にも責任があり、働くときには何かしらの契約書なりを作るのが普通だ。

つまり、仕事を頼む側にも頼む側の責任があって”仕事”が成り立つ。この関係がないのにただただ働かされる、というのは、働く側が辛く、働かせる方は楽になるだけ。この主従関係が健全ではないと感じるのは私だけではないと思う。ボランティアの報酬は「感謝・感動」だけ、という人もいるが、まさに、ここが良くないところだと思うのだ。

働いている人に対する「感謝」があればまだ良いが、ボランティアがいるのが当たり前、となってしまったらどうだろう。ボランティア側はそれでも働く意義があるんだろうか?日本に帰ったら同じ仕事で数倍のお給料がもらえるのに?

”労働力”になってしまったボランティアは、持続的でない

そもそも海外協力隊は、長くても2年間で帰国してしまう。そのため、ボランティアは帰国してもその国の人材だけで回るような仕組みを作るのが一番理想的だとされているし、私もそう考えている。

だけれど、労働力としてその場所で働いているボランティアは、現地の人にノウハウを教える時間がなくなってしまうことが多いように見える。あくまで、ボランティアとしてその国の発展を願うのであれば、労働力として短期的な”仕事”をするのではなくて、自分が帰っても残るようなことを考えたい。

これは正論だけれど、実際現場に来るとこれは非常に難しい、というか、仕事をしてあげる方がよっぽど簡単なのである。”仕事”になってしまいがちな理由はここにある。現地人ができていないことは、日本人がやってあげたらだいたいすぐに終わるのだから。そして簡単に”感謝”という報酬も手に入る。

持続的な活動をやってあげたい、と思いながら、結局どうすれば良いのかよくわからなくて悩んでいるのが今の私のステータスなのだと気づいた。ジンバブエに来て半年、活動計画を立てる時期。ずーっと、もやもやモヤモヤとしている今日この頃。

どこまでやればいいかわからない

仕事もボランティアも、何か価値を提供したいと思ってする活動である。
上記で触れたように、仕事は、やったことに対してお互いに責任を持ちましょう、という概念があると思っていて、ボランティアではこれが崩れるような気がしている。

そしてボランティアでは、どこまでが健全なボランティアで、どこからが自己犠牲か、という明確なラインが存在しない。仕事だったら自分の責任の範囲は明瞭であるべきで、その範囲外のことはやらなくてもいい。ボランティアだとどこまで活動範囲を広げるか、のラインは同じ場所に入っても人によって異なっていて、これが非常に揉め事の原因になる気がしている。

同じボランティアでも、とある人は一人でかなりたくさん働くかもしれないし、またある人は自分を守るため、小さい範囲しか手を出さないかもしれない。たくさん働く人から見たら、「あの人はあれしかやってない」と思うかもしれないし、小さい範囲で頑張る人からしたら大きな範囲で働く人がいたら引け目に感じたり、そこまでやる必要があるか?と疑問に思うかもしれない。

また、感謝が報酬であるボランティアは、”自己犠牲”と紙一重であると感じる。どこまでやっても、”感謝”は簡単に手に入れられることが多いので、果てしなく自分の身を削っても活動してしまう。私の知っている人は協力隊ではないけれど、大病を患ってもボランティア活動を辞めなかった。感謝されるから、と信じ、ボランティア活動を続けている。

「ボランティア依存症」という言葉を聞いたことがあるだろうか? 感謝や感動を求めて、ボランティアを自分の財産や健康を削ってまでやってしまうのである。しかし、支援される側からして、例えば100万円しか貯金がないのに80万円分の支援をされても嬉しいだろうか? ここはいいから自分に使ってよ!となるのがノーマルな反応な気がする。

ここまでくると、「私はこんなにやったのに!」という勘違いをする人も多発する。それは単なる親切心の押し付けかもしれないということに気づかない。「私はこんなにやったのに!」の後には「(どうして感謝されないんだろう)」が続く。それは勝手にあなたがやっていることではないのか。本当にその人たちの依頼のもとで行なっているボランティアなのか。

ボランティアなんて、自己肯定のためにするものなのかもしれない。自分を肯定できる範囲で、自分を削ることなく、残念なボランティアにならないように心掛けたいと常々思っている。

健全なボランティアのあり方

では、残念なボランティアを生まないために、どういった仕組みが必要だろうか?
思うに、健全なボランティアは、よく精査された依頼のもとで、依頼を解決する形でしかあり得ないような気がしている。

例えば、被災地で「ここからここまでの瓦礫に困っているので、これをどかしてください」という依頼がまずあって、その依頼に応えられる人材がボランティアとして派遣されるという流れがよいのだと思う。とりあえず何かしたい!という人がなんとなく被災地に行って何かさせてください!というのではなくて、適切な場所に適切な人材を送るコーディネーターが必ず必要になる。

協力隊の難しさ

JICA海外協力隊の場合、途上国側が派遣依頼を出すことになっているけれど、その実態は調整員が途上国側に営業をかけて、こういう人材がいますがどうですか?と案件を作る仕組みになっている。

例えばジンバブエでは、現在コンピュータ系の職種と体育系の職種しかないけれど、ジンバブエ国としての問題はもっと他のところにある気がする。例えば、電気や水の供給が安定しないし、道路も国道でもぼこぼこ。コンピュータ云々の前に、電気工事士や土木といった職種の方が絶対に必要だと感じる。が、国としては依頼を出していない。ジンバブエ側のプライドが高く、体裁を保つためにそういった依頼は出さないという噂もあるし、今までの調整員の調整力不足という見方もできるかもしれない。

そして私の依頼先を見ると、ここに協力隊が来て何がしてほしいんだろう?という疑問が生まれる。要は、ボランティアの要請自体が適切ではないような気がしてしまうのである。なんとなく、できることはないわけではないし、活動計画も「ICT環境の改善」を目標にして立てることは可能。けれど、私へのはっきりとした依頼があるわけではない。「IT環境の改善」というぼんやりしたミッションがあるだけ。一体何が改善なのか、どんな状態を目指しているのかということもない(そこから提案していってあげないといけない、ということなのかもしれない)。

そしてここでは、要請自体が大雑把で適当(に見える苦笑)なため、徐々に徐々に、学校側とスタッフを巻き込んで目標を立て、目標に向かった計画を立て、それを実行することが求められる(気がしている)。が、難しいのはアフリカ人は本当に計画を立てて物事を進めるということができないということ。一回、計画を立ててみるからチェックしてよ、と現地のカウンターパートに軽くお願いしたところ、それは俺たちのやり方じゃないからな〜と笑われてしまって、唖然としたことがある。

計画を立てるには障壁が多すぎるという見方もできる。例えば、ここまでにこれを買ってきてね、というような簡単なことでさえ、何が障壁になるかわからないので計画が機能しない。お金がないかもしれない、モノがないかもしれない、道が悪くて輸送が間に合わないかもしれない、電気の供給が全然安定しない、など。

仕事のようにガリガリと自分で計画を立てて働くこともできなくはないけれど、それが果たしてこちらの求めることなのかもよくわからない。学校側が求めることだと信じられないのに仕事のように働くことは、私には難しい。

こっちは一人なのだ!どれだけ孤独で、どれだけ疲れることか!笑

終わりに

最近考えていることを書き出したら、モヤモヤが爆発してなんだかうまくまとめることができないけれど、とにかく一回世に出してみようと思ってまとめにかかる。

ボランティアという枠組みのなかで動いていく協力隊の難しさをひしひしと感じている今日この頃。難しいからこそ面白い、ボランティアだからこそできる活動もあると信じて、少しずつ進めてみるしかないのかもしれない。

活動を”仕事”にせず、あくまでボランティアとしてできる範囲で活動していく。ボランティアだからこそ一歩引いて見られる視点もある。私が目指す形は、あくまで「ボランティア」という範囲の中でこの国や派遣先に貢献することなのだから。



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