見出し画像

西川美和「映画にまつわるxについて2」①〜撮る(shoot)ことは、撃つ(shoot)ことに似ている〜


1巻が大変面白かったので、2巻も読んでみました。
私は読書をする際、グッときた箇所には付箋を貼ることを習慣にしているのですが、2巻もまたまた付箋だらけになりました。という訳で、今回も2回に分けて記事を書いていきたいと思います。

この本の概要

映画『永い言い訳』の制作過程をベースとしたエッセイです。読む前に一度映画を観て、読んだ後にもう一度観ると、「この撮影の時、あんなこと考えていたんだなぁ」とか「監督がめちゃくちゃこだわってた音楽ってコレか!」など発見があって楽しいです。(『永い言い訳』はアマゾンプライムで視聴可能です)

漫画原作や連ドラの映画化が多い昨今の映画業界には珍しく、オリジナルの書き下ろし脚本で撮る西川監督。オリジナルで映画が撮れるというのは贅沢に思えますが、映画化を前提としながら脚本を書くということは、アイディアを自主規制しながら書かねばならないということでもあるのです。
つまり、漫画や小説ならば何百人の兵士が出てこようが、建物がド派手に破壊されようが0円です。しかし映画となると「このト書きを実現させるためには200万はかかるな」「動物相手の撮影は時間かかるんだよな〜」など、色んな制約が生まれてくる。そこで『永い言い訳』は、まず映画化を一旦度外視して小説を書き、その後に脚本化するという手順で紡ぎ出されたそうな。

このエッセイを読めば、一本の映画が執筆され、キャスティングが進み、遂にクランクインし、編集され、封切りされるという一連の流れの中で、映画監督がどんなことを考え、悩み、喜び過ごしているのかが把握できます。

主演俳優・本木姫に向ける、鋭い人間観察の眼差し

特に面白かったのが、主演俳優・本木雅弘とのメールのやりとりです。
“おくりびとの人” “樹木希林の娘婿”くらいしか知らなかったので驚きだったのですが、本木さんは非常に自意識が強く心配性で、(身近にこんな人いたら絶対めんどくさいさ〜)という感じの人なのですが、決して狭量なわけではなくどこかチャーミングで、まぁつまり、周りを振りまわしまくる憎めないお姫様みたいなおじさん俳優だったそうな…
そんな本木姫から送られた面倒臭い長文メールの数々が沢山引用されているのですが、こんなメールの掲載を許可しちゃう本木さんって、なんだかんだやっぱりいい人なんだろうだなぁと思いました。
以下、西川監督による本木姫評です。

しかし本木氏には、何人にも侵されない、何人にも追いつけない特殊な風格があった。5歳児の子役が機嫌を損ね手がつけられないレベルでぐずっても、75歳児のカメラマンがパニックに陥って現場が混乱しても、涼しい顔ですっくと背を伸ばしてそこに居続けた。かと言ってこの窮状を我こそがと息巻いている風でもなく、ただ平気のへっちゃらなのである。
(略)
自分自身のマイナス要素にはどうなだめても悩み続けるのに、人の落ち度や時の不運に関してはどこまでも寛容だった。ひょっとするとこれも屈折した自己愛の行き着いた場所なのか、つまりは他人の失敗なんて「どーでもいー」のかもしれない。しかしその「どーでもいー」に、私たちは度々救われて居た。(略)それが優しさとも本人は思ってはいないだろうが、周囲は慰められている。全てを許しているとも言うし、底抜けに諦めているとも言うのであろう。

西川監督のことはとっても好きなのですが、人間観察眼が鋭すぎて実生活でこの人とお友達になるのはチョットコワイ・・・
朝井リョウさんと西川監督で1泊2日のバーベキューとかに行ってもらって、お互いに観察し合ってみてほしいです☆

“撮る”ということ

俳優を丸裸にするような眼差しで見つめる西川監督ですが、そんな自分の行為に対しても非常に鋭い分析の眼を向けていました。
映画監督という職業は裏方であると共に、作品のPRのために表舞台に立つ機会の多い表方でもあります。しかし西川監督は、撮られることに対して苦手意識があるんだとか。

もしかして私たちは、撮られる人たちを心のどこかで軽蔑しているのだろうか?よくもまぁ、こんなことができるもんだな、と。まるで娼婦を抱きながら、娼婦を愚弄する男のように。そんな女に抱いてもらって、自分は生かされてる癖に。
(略)
おそらく私にとっては、撮るという行為それ自体が既に、永久に後ろめたさのつきまとう行為なのだと思う。
(略)
私たちのとってカメラという機械は、武器であるに等しい。「撮る(shoot)」ことは「撃つ(shoot)」ことと近い暴力性を持っているのであり、カメラを持つものと持たないものが居れば、場を支配する優位性を持つのは常にカメラを持つ方だ。だから私たちがカメラを人に向けるのは、盗人が目の前の人におおっぴらに銃口を向けてるのと似ていると思う。それは「これから私はあなたを盗りますよ」という宣言に等しくも見える。

大人の俳優はshootされることを自ら望んでいるので共犯関係と言えますが、子役となると話は別です。
「ボク、映画に出たいです!」とは言うものの、それは半ば親の意思であって、純粋なる本人の意思とは言い難い。
子役を登用することへの葛藤や、子役達にどんな演技指導をつけるべきか、どこまでなら許されるのかについて思案する文章も興味深かったです。

さて、そんなshootの第一線を張るカメラマン。一口にカメラマンと言っても、色んなタイプのカメラマンがいるそうです。
①劇映画の現場が多いカメラマンは、
技術者らしく口数も少ないけれど、仕事は正確。無理難題を課しても傭兵のように体を張り、「言われたものはきっちり撮るよ」と少ないチャンスでも狂いのない仕事をします。
②フォトグラファーやコマーシャル経験が多いカメラマンは、ふと構えた瞬間にファインダーの中の画に「詩」が流れるような美しさがある一面、一枚絵としての美しさが物語を凌駕してテーマを霞ませることもあるそうです。
③ドキュメンタリーの現場が多いカメラマンは、少人数で作るからかフットワークが軽く、演出に対して参加意識が高くよく意見を言います。

被写体に一番近寄るカメラマンは、そのコミュニケーション能力によって被写体から出てくるものが変わってくる重要なポジションである。

『永い言い訳』で登用された75歳の大ベテランカメラマンは、③タイプの方だったそうです。(2回り以上歳の離れた彼女がいる、アグレッシブな自由人!)
思ったことを遠慮せずに監督に物申せるスタッフは珍しく、貴重なんだとか。

みんな映画が好きで集まった人たちのはずなのに、「自分が口を出すようなことじゃない」と身を引くスタッフも多いように思う。「映画は監督のものだから」という決まり文句は、逃げ口上としても多用される。こっちだって騙されちゃいない。「楽をしようとしやがって」と思うこともある。上が何かを決めるまで思考停止状態で待っているのは、本当に楽なことだ。
「なかなか決まんないんだもん」と待たされた苦労を裏でつぶやく卑怯を、私はスタッフワークをやっていた頃に自らも働いた。

う〜ん・・・思い当たる節、ありますよねぇ!?
誰でもこんな永い言い訳をしたこと、そしてされたことがあるのでは?と思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?