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西川美和「映画にまつわるxについて2」②〜適量の孤独が、鬼を踊らせる〜

引き続き、西川監督のエッセイの感想です。
感想、というほどのものでもないのですが、おっ!と思った箇所を備忘録のためにメモしたいと思います。


カット割の奥深さ

カット割によって、どこの台詞に力点をおくべきなのか、誰の感情でドラマを観て行けば良いのかも変化する。(略)つまりカット割は演出意図そのものであり、作り手の作為やセンスの結晶だ。シナリオは最高で、役者も良い芝居をしても、カメラポジションが悪ければ捉え切れずに終わるし、ワンカットで通せば生々しい緊張感が出たのに、カットを重ねたせいで作り物めいて見えてしまったりもする。

ちょうど最近カット割りについて考えるのがマイブームだったので、めちゃくちゃ頷きながら読みました。
カット割りが上手い作品というのは、それを意識させない作品だと思います。つまり、「あっ、今画角が変わったな」と視聴者に全く意識させることなく、見方を誘導できている作品のことです。
例えば、喋り手が交代する時に画角が変わるのが一番オーソドックスなカットチェンジなのですが、聞き手の表情を見せたい場合は、喋り手の台詞の途中で画角を変えることもあります。
ただその場合、聞き手役を演じる役者の表情がイマイチ(或いは書き込みが甘く、聞き手の感情を読み取れない脚本)だと、「えっ、なんで今わざわざ画角変わったの?」という違和感を視聴者に与えてしまいます。
他にも例えば【2人映っている画角→1人のアップ】になる場合。1人のアップという画角にもう一人がやや映り込んでしまっていると、寄った効果が薄れてしまいます。
つまり、意図の弱いカットチェンジは違和感を招くということです。

じゃあ『ずっと引きの画角にして、カットチェンジしなくても登場人物の顔が全部見えてる画角のままフィックスにすればいいじゃん!』と思うかもしれませんが、それでは役者の繊細な表情を拾いきれず、映像である強みがなくなってしまいます。映像の強みは、作り手が「ここを見て!」或いは「見ないで!」と視聴者をコントロールできることです。
ここが舞台との違いですね。舞台は照明を絞ったりしてある程度「ここを見て!」とコントロールするものの、どこを見るかの選択は観客に委ねられています。舞台ならば、「あの役者の表情もこの役者の表情も採用!」とすることが可能ですが、映像はどれかを捨てなければならない。これは映像監督ならではの苦悩だなぁと感じました。
ちなみに、舞台を映像化する際はこれに似た(或いはそれ以上の)苦悩が伴います。なぜならそもそも舞台というのは映像化を前提に作られていないからです…。「あと2歩内側に入っておけば同じ画角に収められたのに!」とか、「カメラの台数が少なくて引きの画角おさえられてない!アップの画角をつないでいくしかないけど、そうすると無駄にカットチェンジが多くなっちゃう〜」などの苦悩が付きまといます。
劇団☆新感線のゲキシネは、20台以上のカメラを使って撮影しているんだとか。それだけのカメラがあれば「あの画抑えられなかった〜!」という苦悩からは解放されそうだけど、「どの画を選べばいいんだ〜!」という新たな苦悩が生まれそう…

適量の孤独

「不幸な方が凄い作品がつくれる」
「幸せになって、あの作家はつまらなくなった」

時々、いや結構頻繁に聞くこんな言葉。
不幸な方が凄い作品が作れるだぁ?そんな訳あるか!下手な呪いはもう結構だ!幸せな人が作る作品のほうが、観る人をも幸せにしてくれるに決まってるじゃぁないか!!こんな呪いは鼻かんで丸めてゴミ箱に捨ててしまえ!
・・・とは思うものの、「でもまぁ…そういうものかもなぁ」と思う自分もいる訳で…(純くん風)

西川監督は、創作と孤独について下記のように述べていました。

ものを作るのに必要なものは何か。アイデア、情熱、才能、自信、金、愛情、怒り、希望、欲望、羨望、人望、その他各種色々だろうけれど、〈孤独は人のふるさとだ〉と言った坂口安吾の言葉の通り、さびしさに身を沈め、じっと孤独と詰める瞬間がなければ作り手の中の鬼は物語で踊らない。ただし生業として続けていくためには、それは「適量」でなければならない。その分量が実に難しい。人間関係を断ち切って、孤独な環境に自分を追い込むことは物理的には案外簡単だが、量が過ぎると心は痩せ細り、生命力が奪われ、作る以前に立っていることができなくなるし、また、その厳しさから逃れたいが故に、孤独から解放されることだけが物語を終結させるモチベーションになったりもする。

うぉぉ、カッケェ。そうですよね、うん、その通りだと思います。
ただ不幸なだけでも、不幸すぎてもダメなんですよ!!
適切な量の不幸。いえ、不幸ではなく、適切な量の孤独。コレです。
つまり、不幸である必要はないんです、きっと。
どんなに幸せであろうと、適量の孤独をそっと抱えていれば、面白いものは生み出せるのです。
作り手の中の鬼が、物語で踊りだすのです!(言いたいだけ)

撮影と編集を終えた後の話

長い長い執筆期間を経て、撮影を終え、編集をし、関係者向けの試写を重ね、いよいよ公開!これにて終了!

ではありません。むしろここからが祭りのスタートです。
宣伝活動、映画祭への参加・・・なんだかハレの場が続いて楽しそうですが、何度も何度も同じ内容をインタビューされ、繰り返し同じ作品について述べ続けるというのはノイローゼになってしまうくらいのシンドさがあるのだとか。

かつて、多くの取材を受け、売るための美辞麗句を自ら反復した結果、人から「作品良かったです」と言われただけで苦しくて涙が出るような状態に追い込まれたこともった。32歳の頃。「ゆれる」という作品だったが、2005年の末に完成してその後2年くらいは地方のイベントや海外回りが続き、最後はタイトルを聞くだけでキーンと耳鳴りがした。愛して育んだ作品とそんな関係になってしまうとは、無邪気に現場で汗をかいていた頃には予想だにしないことだ。多分それは、作り終えた作品への執着を捨てなければ、決して次の道は開かれないと知っているのに、無理矢理鎖で首を括られている苦しさなのだと思う。
(略)
自分を取り巻く話題は全て過去にまつわるもので溢れており、少しも先のことなど考えられない。その上最後には必ずこう訊かれてしまうのだ。「それで、次回作の構想は?」

そんな西川監督に、発想の転換の機会を与えてくれた人物がいました。

ポイントは、能動的になれるか否かだと教えてくれたのは、「ディアドクター」という作品の主演を務めてくれた笑福亭鶴瓶さん。(略)鶴瓶師匠は一つのエピソードを語るごとに、聞き手のインタビュアーの反応、笑いどころを具に観察し、一回ごとにしゃべりの間を変え、表現を変え、表情を変え、縮小や拡張を試み、キャンペーンの終わることにはご自分の独演会で披露できるクオリティのネタをいくつも完成させていた。

『スイッチインタビュー達人達』という番組で、劇団四季の俳優・佐野正幸さんがご出演されていた回を思い出しました。
佐野さんはオペラ座の怪人を30年以上演じ続けています。30年も演じていれば、半分寝ぼけてても舞台に立てるのでは?と思ってしまいますよね。
悪い意味で慣れてしまわないのですか?という質問に対して、「毎日新たな発見があるから、飽きることはない」と答えていらっしゃいました。
ポイントは、能動的になれるか否か。
どんな仕事にも、いや家事や日常の生活にも、同じことが言えるなと感じました。



4回に渡るnoteを書きたくなるほど、心に響いたエッセイでした。
西川監督の師匠、是枝監督のエッセイも読んだので、時間があるときにそちらもまとめたいと思います。


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