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「以後、気をつけます」

「何を」、「どのように」気を付けるか。そんなことを説明してくれた人って見たこと無いんですけど、みなさんはどうでしょうか。

 「以後、気を付けます」

と言ってくれた業者、取引先や部下などと接点を持ったことがある人は、問題解決の具体策を聞くことはあっても、「気を付ける」と言う点について詳しく掘り下げて聞かれたことがありますか?

ちょっと意地悪く、「で、何に気を付けるの?」と聞いても、「今後同じミスをしないように」とか"何に"とは異なる回答が返ってくることがしばしばです。

それでは絶対になくならない

失敗撲滅の大原則は何か?
それは、

 「人の注意力頼みでは、失敗もミスもなくすことができない」

ということです。
よく、何か失敗をしたときには、

 「申し訳ありません。以後、気をつけます」

と謝罪をしますよね。私も今までたくさん聞いてきました。立場上、私が問題解決に関わっているという時点で、そんなセリフ1つでユーザーが納得しないようなトンデモ状況に陥っていることは分かっているので、私自身はあまり使ったことがないかも知れません(子供の頃はどうだったかなぁ…)。まぁ使わない…というよりは、「使えない」「使っちゃいけない」が正しいのですが。

なるべく神妙な顔をしてこの言葉を口にすれば、さほど深刻な状況でもない限り、多くの場合は許してもらうことができます。聞かされているほうは、通常であれば、

 「この人は本当に反省しているようだ。
  もう同じ過ちは繰り返さないだろう」

と信じ込んでしまいます。そして「次からは気をつけろよ」と声を掛けます。反省してさえいれば一切失敗しなくなるというのであれば、どんな人でも、どんな企業でも、反省だけしていればいいのです。

実は、このときに「信じ込んで」しまっているのは、聞き手だけではありません。この謝罪を口にしている本人自身も、

 「よし。自分はもう、こんなミスはしないぞ」

と神妙な面持ちで決心をしているはずです。二度三度と怒られたくないですもんね。繰り返しすぎると自身の評価にも影響を与えます。だから、それなりの決心をして、絶対ミスなんてしてやるもんかと思っているものです。

けれども、それってちょっと回りくどい言い方をすれば、

 「次に同じような状況に遭遇したら、その遭遇したことを、
  自分の注意力でもって気づいて、失敗を回避しよう」

と心に誓っているのと同義じゃありませんか?

これって…果たして、本当に実現するのでしょうか?


人間の精神性に確実さを求められるのか

残念ながら、だいたいにおいてこの誓いは破られると思います。人間の決心は『継続性』と言う1点において、とてもいい加減なものだからです。ましてや注意力はもっといい加減なものです。注意力と言うのは、物理的/肉体的な取り組みだけで解決できるものではありません。

機械であれば細心の注意が必要な作業を、電源を落とすまで延々とし続けることができますが、人間には不可能です。「腹が減る」「周囲の雑談が気になる」「眠い」「同じ作業ばかりで飽きる」等、いくらでも集中を切ってくる要因は出てきます。

もちろん機械にしても、注意をして細かい作業をしているわけではありません。同じ位置に同じ部品を寸分違わず組み付けたり、文書ファイルから文字列を漏れなく検索できるのは、機械には「注意力」や「集中力」どころか「意識」「気持ち」といった精神性が必要ないからです。作業に集中することもなければ注意力が散漫になることもない、指示されたことを組み込まれたロジックに従って忠実に再現し続けているだけです。

 ・機械的にできる
 ・寸分たがわず精緻な品を量産できる

こうした取り組みは機械の方が圧倒的に優秀です。

一方、人間には意識があり、その意識は常に揺れ動いています。仕事をしていても突然プライベートの気になることが頭をよぎったり、空腹や喉の渇きを感じたり、トイレに行きたくなったりすることもあるでしょう。体調不良や二日酔いがあったり、隣の人が気になったり、イヤな上司に怒られて気持ちが沈んでいたりします。

人間の意識はいつでも"自由気まま"に飛び回っているのです。

もし、過去のあやまちを元にして注意したいと一大決心しているのだとしても、そもそもその過去のあやまちという「記憶」にすべてを委ねる、という時点でものすっごい不安です。人間の記憶力ほどあやふやなものはないからです。

そんな確実性のない存在である人間に、「注意力をいつでも向けておけ」というのは、どうしたって無理な話です。しかも、そうそう何でも注意していられるわけではないので、複数の「常に注意すべきポイント」が出てきた場合、一つのポイントにとらわれた結果、他の重要なポイントを見逃してしまう…ということも珍しくありません。

たとえば、車の運転をするときには1点だけに注意を向けすぎないことが重要です。しかしそれでも、車道と歩道が仕切られていない道路で、

 「歩行者に最大限、注意すること」

という指示をしておきながら、

 「信号にも注意すること」
 「車間距離には注意すること」
 「左後方からバイクや自転車がこないか注意すること」
 「いきなり目の前に車線変更してくる車がないか注意すること」
 「対向車線の右折に注意すること」
 「右折する時は、対向車線の直進車やバイクに注意すること」
 「左折する時は、歩行者の巻き込みに注意すること」
 「ドライブスルーのお店があったら入ること」

 「スマホ等が鳴っても走行中は出ないこと」

という指示をどんどんと重ねたら、どれかへの注意がおざなりになりがちとなるでしょう。特に、初心者マークをつけているような人には絶対にしてはいけません。そして、注意力がほんの少し散漫になった人から、事故を起こします。


仕組みを憎んで人を憎まず 

もし、人聞の絶え間ない高度の注意力を必要とするものがあれば、それは

 「作業手順そのものが成熟していない。
  または作業プロセスそのものに設計ミスがある」

というのが私の考えです。先ほどの運転の例でも、もし

「歩行者に最大限の注意を払いながら、
 ドライブスルーのお店に入りなさい」

という指示のもと、事故を起こしてしまったら、その原因は単に運転者の未熟な技術にあるだけではない、運転者の意識が低かっただけではない、ということです。前方に特に気をつけなければいけないような道路にドライブスルーのお店がある、というのがそもそもの間違いのように思います。

あるいは、自動車にオートブレーキが搭載され、自動運転が一般的になれば、車の操作や前方不注意に関わる事故は起こらなくなるでしょう。そう考えれば、車の機能が十分成熟していないといえます。車そのものが改良されれば、深夜の高速バスで起こっているような悲惨な事故も起こりようがなくなるはずです(かといって、その過酷な労働条件が改善されなくていいということではありませんが)。池袋暴走事故のようなこともそもそも起きかったはずです。

あるいはドライブスルーの入り口前後に、車と歩行者が同時に侵入できないような仕組み(遮断機等?)があれば、事故は起きなかったかもしれません。

今でこそ普及した旅客機のオートパイロット(自動操縦装置)によって、パイロット(操縦士)は「常に注意を集中させる」という過酷な作業条件から解放されました。離着陸といった大事な場面のために、集中力を温存できるようになったのです。

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これはまさに、事故が起こりにくいように作業そのものを設計し直した好例でしょう。


ITに委ねられた未来

では、私たちのようなオフィスワークはどうでしょう。

たとえばコピー機やスキャナの出現や、パソコンの自動校正機能などもあって、昔に比べると「注意力」が過度に求められる事態は減りつつあるといえます。しかし、私たちが注意力と労力を費やさなければいけない作業は、まだまだ溢れています。

たとえば、向きも大きさもてんでバラバラの領収書を集め、A4用紙に行儀よく貼り付け、コピーをとって、その内容をスプレッドシートかデータベースに手で打ち込んでいく…こんな経理の作業には、打ち間違えのないようにとか、申請漏れがないようにとか、様々な注意すべきポイントが潜んでいます。そのため、会計は、ダブルチェックを行なう、監査を入れて間違いがあれば見つけるなどの対策をとることで、未熟ながらも、ミスが起こりにくい手法が確立してきています。

この作業のように、仕事の本質とはあまり関係のないものに関しては、今後不要になっていくものも多いいのではないでしょうか。

現在のOCR(文字認識)は相当な精度で読み取ることができますし、AIを駆使した画像認識もかなりの精度です。POS(販売時点情報管理)システムが進化するのか、消費者側のクレジットカードシステムが変貌を遂げるのか、あるいはすべてRPA(仮想知的労働者)などが自動化してくれるのか、それは予測がつきませんが、まちがいなくIT技術の活用によって、

 「人間が注意すべきポイントがいくつもある煩雑な作業」

は今後、どんどんしなくてよくなっていきます。つまり、システムそのものに改善を加えて、「ミスが起こらないしくみ」に切り替えられていくということです。実は、個人のミスについて考える際にも、大事なのが、現状の

 「ミスを起こさないために注意して作業しなければいけないしくみ」

から、

 「注意しないでもミスが起こらないしくみ」

に切り替えていくということだと思っています。

IT業界は、その仕組み(ルール、基準、手順、etc.)を提供する最前線で「モノ」を提供している業界です。ハードウェア/ソフトウェアを含むすべての仕組みが実現されたモノを「システム」と言いますが、そのシステムを実現するためにまとめられた人の持つイメージを「仕様」と言います。
 
たとえば、いくら注意しても正しく経費の申請をしてこない人に、

 「次回から気をつけてください」

と指導しても時間の無駄です。性善説にしがみつき、いつまでも「気を付けてください」と怒り続けたい人はそうしていてもいいでしょう。

 「注意するだけでは、完全にミスを撲滅できない」

と言う性悪説に則った場合にかぎり、初めて"仕組み"を考えることができるようになれます。そして、その人がきちんとするしか申請できない仕組みをつくっていくことが、お互いの仕事を円滑に進めることにつながります。「仕様」とはそうせざるを得ないようにするためには、どうすればいいか?をまとめた虎の巻のようなものです。

「システム」とは、その「仕様」を実現したものに過ぎません。システムには、人間の持つミスを誘発しないようにするため、性善説ありきで作ってはならないという基本原則に則り、精緻な仕組みの粋が集められています。


個人でもいっしょ

個人の失敗についても、同じような考え方を持ちましょう。

 ・何か失敗をしてしまったときに、
  「次回から気をつけよう」と念じるのはやめる。
 ・注意力を求められるとき、煩雑な作業が発生するときには、
  そうしなくていい具体的方法を考える。

それが失敗を撲滅するための一番の近道なのです。そして、それらができない人、やろうとしない人が品質を低下させます。できる人やできる人の周囲では、圧倒的にミスが減っているか、ミスが検知できる仕組みができているはずです。

これは作業そのものや、できあがった成果物に限った話ではありません。

コミュニケーション齟齬などのミスなども大いに減っていることでしょう。言い換えれば、トラブルを起こすか起こさないかは、

 「仕組み中心で仕事をするか、
  属人中心で仕事をするか」

で明暗がはっきり分かれるということです。

どのような仕事であっても、一部の人に依存し、一部の人以外にできないような属人的な状況を作り出している間は、品質の高いアウトプットが安定供給できることはありません。結局、人によってマチマチになるからです。

品質とは、「仕組み化(プロセス化)」できているかどうかで、大半のことが解決します。「人」に依存した自由度を与えれば与えるほど、品質が低下する確率は向上していくのです。

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